特定非営利活動法人失敗学会 |
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竹ノ塚駅踏切死傷事故
サイドローズエルピー、ゼネラルパートナー
飯野謙次
【シナリオ】
【概要】 2005年3月15日、午後4時50分ごろ、東武伊勢崎線竹ノ塚駅通過の上り準急列車が同駅すぐ南にある踏切に差し掛かったところ、 手動で遮断機を操作する保安係員がその列車の接近を見落とし、 遮断機を上げられないようにかかっていたインターロックを解除して遮断機を上げてしまった。 踏切待ちをしていた歩行者や自転車が踏切内に立ち入り、それに気がついた準急列車の運転手が急ブレーキをかけるも間に合わず、 人や自転車を撥ね、4名が負傷、うち2名が死亡した。 原因は、同踏切が朝夕のラッシュ時に開かずの踏切となることから、本来安全のためのインターロックを、 列車の合間を縫って長時間踏切待ちをしている人、自転車、自動車を渡すために使用することが常態化しており、 気軽な安全解除と係員のうっかりが重なったものである。 【発生日時】 2005年3月15日、午後4時50分ごろ 【発生場所】 東武伊勢崎線竹ノ塚駅すぐ南の踏切 【背景となる情報】 伊勢崎線竹ノ塚駅構内第37号踏切道 図1 東武伊勢崎線浅草付近と竹ノ塚駅 東武伊勢崎線は東京都浅草駅と群馬県伊勢崎駅を結ぶ114.5kmを走り、東武鉄道保有の路線で最も長く、同社の主要路線である。 事故があったのは、浅草駅より13.4kmに位置する東京都足立区西竹の塚1の竹ノ塚駅(図1)ホーム南端から50mほどの踏切である(図3)。 図2に、事故後ではあるものの、本事故のあった踏切が後に自動化される前、 まだ手動であった時の貴重な写真がウィキペディアにあったので掲載する。 図2 事故のあった踏切(9月19日撮影、自動化前) 事故当時この踏切は、第1種乙型と呼ばれる、 すなわち始発から終電までの全ての列車に対して踏切保安係が手動で遮断機を操作するタイプであった。 国土交通省鉄道局施設課は、事故の翌日、"全国の第1種手動踏切道数の状況について"をそのホームページで発表しており、 当時第1種踏切は全国に30,539か所あり、その中で手動の乙型は59か所と非常に少なかった。東武鉄道では3か所残っていた。 同踏切内には、西側から下り急行線、下り中線、下り緩行線、上り緩行線、上り急行線の5本の軌道があり、 踏切を渡る時の2つの遮断機間の距離は33.2メートルである。踏切を回避して反対側に渡るには、およそ100メートル離れた北の竹ノ塚駅舎、 もしくはそれ以上離れた南の歩道橋を利用するしかなかった。 この踏切が手動の乙型として残っていたのは、運行列車タイプが、沿線の人口増加に伴って特急、快速、区間快速、急行、準急、区間急行、準急、区間準急、普通 (これらのうち、竹ノ塚駅に停車するのは普通のみ)と多いため、 自動化すると朝夕のラッシュ時には開かずの踏切となってしまうことが大きな要因であった。 一般的に、甲型の自動踏切に比べ、乙型の手動踏切の方が遮断機の細かい操作ができ、 踏切近くで電車が停車していた場合などに安全を人間が確認したうえで、遮断機を上げて人や自動車を通すことが可能となる。 また、長い踏切をお年寄りなどが渡り切らないうちに遮断機が下りてしまっても、常に監視員を置くことで緊急対応が可能になる。 半沢一宣氏は、ネットで鉄道事業者を治安・たばこ問題、踏切問題、およびバリアフリー化などに関して糾弾するサイトを公開している (以下、参考文献9)。そこに事故当時の踏切での時刻表を再現したものがあるので表1に示す。 この表でグレーの背景をつけた特急、快速、急行、準急、区間準急(区準)は、竹ノ塚駅を通過するので、 特にダイヤの遅れなどの理由がない限り高速で踏切を通過する。普通列車は竹ノ塚駅で停止するので上り方面の場合は発車直後、 下りの場合は停止直前なので低速で通過する。事故を起こしたのは太線で囲んだ準急行列車である。 本事故の後、ダイヤが改正されて事故当時の時刻表は手に入りにくいが、東武鉄道のホームページより、現在の竹ノ塚駅、 あるいは1つ浅草側で普通の他、急行、区間急行、準急行、区間準急行も停車する西新井駅の現在の時刻表を見ることができる。 それらによるとラッシュは朝の7時~8時が最も激しく、夕方は19時前後である。参考のため、 朝の7時50分前後の事故のあった踏切での列車通過時刻表を表2に示す。 [参考文献9を元に作成] [参考文献9を元に作成]
手動式の本事故のあった遮断機では、踏切南側にある詰所(図4参照)に通常2名の踏切保安係がおり、通過時刻表を参考に実際の列車運行状況、
それに踏切内の自動車と歩行者の状況を見ながら遮断機を昇降させていた。
運行状況のモニターは、窓からの目視と、詰所内の連動盤を見ながら行っていた。
図4 事故のあった踏切詳細 図5は、参考文献9より詰所内の遮断機管理システムを示すものである。電車が踏切に近づくと、連動盤の該当矢印が点灯し、 インターロックが働き、ハンドルを時計回りに回して遮断機を上昇させることができなくなる。 連動盤左にある解除ボタンは箱状のものであり、箱のふたに黒ボタン、ふたを開けると赤ボタンが出てくる。 黒ボタンは、上り緩行線と下り中線に対してのみ、上記インターロックを解除することができる。 赤ボタンはすべての線路に対してそのインターロック解除が有効である。黒ボタンは、上り列車がホームに停車した状態で発車待ちの時、 さらに下り中線で何かの理由により踏切近くで列車が待機する時に頻繁に使うことがあったと思われる。 一方の赤ボタンは、踏切内に自動車が立ち往生した時や、お年寄りが渡り切れなかった時にインターロックを解除して遮断機を上昇させ、 保安係員が対応できるようになっている。本来は、そのような緊急時対応のためのインターロック解除ボタンだったのが、 いつの間にやら、次々にやってくる上下普通列車と通過列車のわずかな間隙を縫って、 踏切で足止めを食らっている人を少しでも多く渡すためのロックバイパスボタンになっていた。 すなわち、本来図らずも危険な状態になってしまったものを安全解決するためのボタンが、通常使用では安全側のマージンが大きすぎるので、 より危険な状態にしてでも便利さを追求するためのボタンに変わっていたのである。 図5 詰所内の遮断機管理システム 参考文献9によると、『踏切保安係が、長時間待たされる通行人から、ときには詰所のドアを蹴り破られたり、 カッターナイフなどの刃物を突き付けられたりして「早く踏切を開けろ」と迫られるというトラブルが、しばしば発生するようになりました』とある。 また、毎日新聞によると、上記インターロックは列車が2キロメートル以内に近づくと作動するようになっていた。 この設定に関しては後に考察するが、駅に停車せんとする、駅から発車したばかり、その2キロ圏内に入っている駅ホームで停車している列車、 あるいは何らかの理由でダイヤが乱れ、前方がつかえて徐行運転している列車についてもインターロックがかかる仕組みになっていたのだから、 インターロックが本来の機能をなくし、黒ボタンばかりではなく、赤ボタンも頻繁に使用されていたのではないかと思われる。 高架化への動きとその阻害 本事故の前年2004年6月に、東京都は『踏切対策基本方針』を発表した。 それによると、奥多摩町、檜原村、島しょ部を除く、東京都には1,187箇所の踏切があり、それらのうち、当時立体化事業実行中の約140箇所を除き、 "2025 年度までに重点的に対策を実施・検討すべき"とされた、"重点踏切"が394箇所あった。 重点踏切のうち、立体化によって問題解決が図られるものが約170箇所あり、それらが20の"鉄道立体化の検討対象区間"にまとめられたが、 本事故の踏切は、竹ノ塚駅北側(図3上部)のものと合わせて、その20のうちの1つに数えられていた。 他の約220箇所の重点踏切は、道路の単独立体化、踏切道の拡幅などの対策を検討するとされた。 東京都の『踏切対策基本方針』は、その諸言が『江戸開府以来400 年にわたる歴史の中で、 東京の近代化は明治維新以降に急速に進められてきました』と始まり、東京都における踏切の問題を非常にわかりやすく解説している。 同方針の冒頭で、東京都が意識している踏切の問題を表すイラストがあったので、図6に掲載する。 この図を見てわかる通り、東京都では踏切の問題を主に地域の発展、活性化を阻害するものとしてとらえているが、 "事故の危険性"についても意識はしていた。 図6 踏切で発生している問題のイメージ図 (2004年6月、東京都による踏切対策基本方針より) 本事故のあった踏切を抱える足立区でも区議会で、少なくともネットで公開されている議事録で1999年から、 竹ノ塚駅連続立体化事業が討論されていたが、安全面よりも地域開発と住民の利便性を理由に討論が進められていた。 参考文献9によると、1972年に西荒井地区の住民が足立区議会に提出した「東武鉄道・高架線を竹の塚駅まで延長要請に関する請願」の記録がある。 東武伊勢崎線では1962年来、当時の営団地下鉄(現東京メトロ)の日比谷線が乗り入れており、 竹ノ塚駅から南南西に500メートルほどの所にあった東武鉄道の西荒井電車区が営団地下鉄に1966年に譲渡され、竹ノ塚電車区となった。 東武鉄道は、この電車区があるため、本事故のあった踏切を含めて竹ノ塚駅近辺を高架化することは、物理的に困難としていた。 本事故前年の東京都による『踏切対策基本方針』でも当該踏切を竹ノ塚駅北側の踏切と合わせて重点踏切としながらも、 南側車庫と北側引き上げ線の取扱いについて検討が必要としている。 ただし、参考文献9によると、東京メトロ日比谷線南千住駅東側にある千住電車区と比較すると高架化が可能であるとしている。 確かにグーグルマップで航空写真を表示し、同じ縮尺で南千住駅と竹ノ塚駅を観察すると、 南千住駅西側で国道4号線の上を通っている鉄道高架と平地にある電車区の距離と、 竹ノ塚電車区から本事故のあった踏切までの距離がほぼ同じようである。図7に2つの電車区を同尺度で並べて示す。 ただし、本記事でどちらの主張が正しいかは判断できない。 図7 南千住駅と竹ノ塚駅近くの電車区の位置比較 【経過】
(本段は筆者の創作を含む)
本事故が発生した時、踏切保安係員は、16:49通過の下り普通列車と、16:50通過の上り普通列車通過の後、
上り普通のすぐ後に通過予定の準急を失念し、解除ボタンを押してインターロックを外し、遮断機を上昇させた。
通常はハンドル操作係と見張り係の2名が詰所にいるが、この時引き継ぎ時間だったため、合計4名がいた。2005年3月15日、火曜日午後4時50分ごろ。時はまさに主婦が夕食の準備で買い物に出かけ、学校の生徒が家や塾に向かう時間であった。 一週間前は暖かな春の兆しが見えたのに行き場を失った冬がまたぞろ気まぐれに戻って来たような肌寒い日だった。 竹ノ塚駅第37号踏切は、開かずの踏切としてみんなが知っている。遮断機が下りる前に警報が鳴り始めたら、多少の無理をしても駆け込み、 急いで渡って反対側の遮断機をくぐるのが普通になっていた。そうしなければこの時間帯は運が悪いと30分も待たされることがある。 歩いていればそうした無理な横断もできるが、自転車に乗っていたのでは、反対側の遮断機をくぐるのも億劫だし、第一恰好が悪い。 それにその日は子供連れ。子供には無理に踏切を渡らないよういつも教えている手前、自分が遮断機をくぐるスタントをやるわけにはいかない。 この時間は、ラッシュのピークまでまだ20分くらいある。せいぜい待たされても5分くらいだろう。 それにしても、すぐそこの駅に止まる普通列車がのろのろと踏切の前を横切るのにはイライラさせられる。 北越谷行きの普通が竹ノ塚駅に近づき、通り抜けたと思ったら、 今度は発車したばかりの浅草行き普通がゆるゆると加速しながら反対に向けて通り抜けて行った。いつものことだ。 電車が行きすぎたと思ったらまた反対からやってくる。普通が通り過ぎたと思ったら、急行が後を追うようにやってくる。 ところが今日は、加速しながら浅草行き普通が通り過ぎると踏切の警報が鳴りやみ、遮断機がスーッと上がった。 学校帰りの生徒はまた踏切につかまってたまるものかとわれさきに駆け抜けていく。 今日はついていると夕飯のしたくを済ませ、仕事に戻ろうと急いでいた主婦は、歩行者に当たらないよう注意しながら、 ゆるゆると自転車をこぎ出した。子供も少し離れてしっかり進んでいる。他の歩行者も、車道にはみ出さないよう、 そして自転車の位置と進む方向を見ながら、安全地帯の緑色部分をしっかりと踏みながら早足で進んでいた。 と、その時、踏切の警報音とは全く異質の、金属と金属が擦れあった時の甲高い摩擦音と、 ブラスバンドが不協和音を一斉に発したような人工音がすぐ近くに聞こえ、 振り替える間もなくすぐ耳元まで一気にやってきたと思ったらとんでもない巨大な力が、全く予想もしていない無防備な人と自転車を撥ね飛ばした。 荷物をいっぱいに詰めた段ボール箱を落とした時のような、鈍い衝撃音とともにそれはやってきた。 耳をつんざくような警笛音と、車輪とレールの摩擦音を鳴り響かせながら、全くその動きに影響されることもなく、 太田発浅草行き準急列車は敷かれたレールの上にあったものをなぎ倒し、蹴散らしながら進んでいった。 大きな鉄の塊に、一瞬にして母親の存在を叩き潰された男の子は立ちすくみ、目の前で起こったことを理解するのに少し間をおいて、 そしたら「お母さんがひかれた」と声が出た。まるで大きな手が胸を突き破り、内臓からその音をつかみ取って解放させたような声だ。 周りの大人を見ても、なんでも知っていて困ったことがあったら助けてくれる大人も、時間を後戻りさせることはできない。 お母さんを助けて元通りにしてくれることもできない。ただ茫然と、悲しそうな眼をして男の子を見つめることしかできない。 自動車免許の教習では、踏切の前では遮断機があってもなくても一旦停止し、左右の安全を確認してから一気に渡ることと教えられる。 歩行者、自転車にはそのような教習はない。自然、警報が鳴り終わり、遮断機が上がったら安全と信じて渡るのが通常の心理である。 しかも、普段は開かずの踏切として毎日の使用者には知られているのだから、 遮断機が上がったらとりあえず前の安全を確認しながら渡ろうというものであろう。 人と自転車を撥ねてしまった列車は太田発浅草行き6両編成の準急。その運転手によると、踏切の50メートル手前、 すなわち運転席が竹ノ塚駅舎をくぐってすぐのあたりで踏切を渡る人と自転車を発見、非常ブレーキをかけ警笛を鳴らしたが、 間に合わずに撥ねてしまった。その列車が停止したのは踏切から225メートルさらに進んだところだった。 仮に最後まで非常ブレーキが作動し、減速度一定でこの列車が停止したとすると、ブレーキ開始から50メートル進んだ地点では、 ほとんど減速できておらず、時速81キロでぶつかったことになる。それは、ブレーキ・警笛開始からわずか2.1秒後のことであった。 列車が完全に停止したのは、事故発生からおよそ22秒後のことである。この事故により、女性2名が死亡、2名が負傷した。 【原因】 直接原因は、踏切保安係員がうっかりして、上り準急の接近を見落とし、危険状態にあるにもかかわらず、 インターロックを解除して踏切遮断機を上げたことである。 しかし、その前にそのような手順違反の操作が常態化していたことが問題であろう。 これは、典型的な安全のための手順が実情にそぐわず、実質的な効果を失って危険な状態を作っていたものである。 【対処】 本事故に関し、国土交通省は鉄道事故調査を行わないとした。 このため、公式な事故報告は東武鉄道の『竹ノ塚踏切事故に関する安全対策の推進について(参考文献1.1)』に十数行の概要と図があるのみで、 福知山線事故などに比べると、事故発生の状況などについての事実確認が少ない。 経過最後の部分に述べた衝突時の列車速度や衝突までの時間は単純に定加速度(減速度)を仮定して算出したものである(付録参照)。 負傷した4名はそれぞれ病院に運ばれたが、うち2名は間もなく死亡した。 【対策】 事故以前から竹ノ塚踏切の高架化についても討議を行ってきた足立区議会では本事故後、 安全面からこの高架化についての討議が活発化し、 「東武伊勢崎線竹ノ塚駅付近の鉄道高架化を求める意見書」が同年3月24日の区議会で議案として提出され、可決されている。 その後4月第1週に議決に従いこの意見書が東京都知事、国土交通大臣に提出された。 東京都、足立区、国土交通省、東武鉄道は直ちに「竹ノ塚踏切対策会議」を設置し、4月22日付けで以下対策を発表した。 (1) 事故のあった踏切の直近に、歩道橋を設置する (2) 事故のあった踏切内の自転車・歩行者通行帯の幅を広げる (3) 駅西口に、エレベータを設置する (4) 駅北側の踏切についても、幅を広げる 高架化の要望に対する直接的解決ではないものの、多少の遠回りをすれば、お年寄りや身障者も含めて、 踏切が開くのを待たずとも踏切の反対側に渡れる手段、さらに踏切内の安全性を高める処置と言えよう。 (2)、(4)の拡幅は同年6月、(3)の西口エレベータは9月に実現した。また、この西口エレベータの使用開始とともに、 事故のあった踏切と駅北側の踏切が手動から自動式に切り替わった。自動化ということは保安係員によるインターロック解除がなくなるため、 自然、踏切が閉まっている時間は手動のころに比べて長くなり、いっそう『開かずの踏切』に待たされる平均時間は長くなる。 踏切横断通行人に遠回りを強いるものの、上記(1)から(4)の対策は当然のものと言えよう。 ただし、事故のあった踏切直近の歩道橋使用開始は翌2006年3月まで待たねばならなかった。 図8に、2009月1月撮影の事故のあった踏切の様子を示す。 (a) 踏切西側から自動遮断機が下りている様子と 新しくできた自転車用スロープ付歩道橋 (b) 夕方のラッシュ時に踏切遮断機が上がり、急いで渡る自転車 (歩道橋より撮影) 図8 事故のあった踏切の2009年1月の様子 高架化に対する地域住民の活動も高まり、2001年の高架化要望の署名は54,000人程度だったのが、 事故の翌月4月末には76,000人超だったのを皮切りに2005年11月には21万人を越えた。 事故の後、町会等の働き掛けなどもあり、足立区は再三再四、国土交通省、東京都、東武鉄道、あるいは東京メトロに高架化の要請を行い、 それは2008年も続いている。 2007年には、東武伊勢崎線竹ノ塚駅付近連続立体交差事業が新規着工準備箇所として国土交通省に採択された。 ただし、この時の国土交通省都市・地域整備局街路課の試算によると、総費用315億円、全体事業費500億円であった。 東京都予算案では、事業費の50%を足立区が負担し、50%を都が補助するとし、 2008年度から東武伊勢崎線竹ノ塚駅連続立体交差事業費を予算計上しているが、2008年度に2,200万円、2009年度に1,300万円である。 高架化が実現するまでの道のりは相当に長いと考えざるを得ない。 【後日談】 2006年2月、東京地方裁判所は、元踏切保安係に禁固1年6ヶ月の実刑判決を下し、被告・検察のいずれも控訴せず、実刑判決が確定した。 2006年3月、東京地方検察庁が、本事故発生当時の竹ノ塚駅長と東武鉄道本社運転課課長補佐2名について、 嫌疑不十分として不起訴処分を決定するも、遺族の審査申し立てを受けた東京第一検察審査会が、2007年1月、 この不起訴処分を不起訴不当と議決している。 【考察】 事故後の調査によると、本事故の直接原因となった動作、すなわちインターロックを解除して踏切遮断機を上げた踏切保安係員は、 前年の2004年4月にも列車が近付いているのに遮断機を上げた。 その時は列車が緊急停止をして大事に至らなかったものの、当時の駅長が東武鉄道本社鉄道事業本部に 「通行人がいたために遮断機が下げられず、電車が急停止した」と虚偽の報告をした。 理由は、駅長としての自分の管理能力に対する評価が下がるのを避けたかったことと、部下をかばいたかったと参考文献11にある。 この駅長の虚偽報告を責めることは簡単だが、問題は、報告する立場にある者が現場の責任者を兼務しているという体制である。 これは多かれ少なかれ、どこの組織にも見られる体制上の問題であるが、ひとつ間違えば人の命にかかわる事業の事故報告は、 できれば第三者的外部組織に任せる、あるいはそのような立場にある役職を設置して行いたい。 なによりも残念なのは、2004年の緊急停止事故の時に、 もしタイミングがずれていたら踏切を渡る歩行者や自転車を撥ねていただろうと当事者が考え、 注意を喚起するだけではなくて何らかの具体的対策を打たなかったことである。 2009年1月20日午後5時ごろ、筆者は実際に竹ノ塚駅南の本事故のあった踏切まで出かけてその様子を観察した。 事故後ダイヤが変更されたので、全く同じ状況は見ることができなかったが、ちょうど事故が発生したのと同じ時間帯であった。 それは最も過密なラッシュの始まる1時間ほど前という時間帯である。踏切の両側に保安係員が立ち、人や自転車を誘導していた。 長い時には10分以上踏切が閉まったままで、上下の普通列車や通過列車が次々に踏切を通過していた。 しかし30秒程度、あるいは1分以上踏切が開くこともあった。最もイライラしたのは、他に通過列車がなく、 上り普通列車が駅に差し掛かった時点で遮断機が下りてしまい、駅ホームで停車、人の乗降、発車、踏切通過を待たされる時であった。 停車予定の上り普通列車ということがわかっているので、遮断機を下すタイミングを工夫できないかとも思ったが、 運転手のポカで、停車駅を行きすぎることもあるので、それもできないのだろう。 また、上がったと思った遮断機が上まで上がりきらないうちに次の通過を知らせる警報が鳴り出すこともあった。 ちょうど筆者が30メートル超の踏切を渡ってみようとしたときも、踏切に1メートルほど入ったところで警報が鳴り出した。 これは一気に渡ってみようと思い、走って前を行く自転車について行った。 反対側に到着すると右側遮断機(踏切外からは左側)はすでに下りており、 保安員の『左に行ってください』という言葉に従って車道に出て開いている方の左側遮断機の下を通った。 正直怖かった。夕闇が迫っていたこともあり、警報音にあおられるようで、転ばないように走り抜けることに精一杯。 電車がどこから近づいているのかも全く分からなかった。 通過列車単独通過の場合、遮断機が下りてから80秒後くらいに列車が通過した。時速90キロメートルとすると、 ちょうど列車が踏切まで2キロメートルに達したところで遮断機が下りるようになっている。 普通列車と下り中線を回送列車が通過する時は遮断機が下りてから20秒ほどで列車が通過していたので、 急行線と緩行線で遮断機を下すタイミングを変えていることがわかる。 事故発生時、踏切保安係員の交代時間で詰所には合計4名の保安員がいた。 大勢いれば、全体の注意力が増すと考えるのは過ちで、交代の引き継ぎなどに気を取られ、反って注意が散漫になることがある。 事故が発生したラッシュが始まりかけの時間は、うまく遮断機を操作すれば踏切を渡りたいのを阻まれた通行人、 自転車、自動車を少しでも渡すことのできる時間である。 ラッシュが本格的に始まってしまえば、そのような無理をすることもできず、開かずの踏切が出現してしまう。 このような微妙な操作をする時に交代時間を設けたのは疑問視されることである。 最大の問題は、いざという時の安全のためのインターロック解除ボタンが、列車通過の合間を縫って人、自転車、 自動車を渡すために使われていたことである。すなわち便利性を追求するために安全度を低めることに使われ、 インターロック解除ボタン使用の手順が全く無視されていたのである。 このように手順やマニュアルは、現場での実情にそぐわないと無視されてしまう。 そして、その手順やマニュアルから逸脱した操作は安全のための考察がなされないまま、現場で実行されるため、不備なことが多い。 本記事を読まれた読者は、自分たちの事業の中で無視されている手順やマニュアルがないか調査し、 実情に合わせながら安全を実現するにはどう変更しなければならないか、 変更が不可であれば、それら手順やマニュアルが遵守されるための工夫を考えていただきたい。 参考文献
付録:事故列車制動の計算 参考文献1.1と5.より、以下の諸量が正確な数字であると仮定する。 列車は歩行者と自転車に衝突する50メートル手前、時速90キロメートルの時にブレーキをかけ始め、 衝突後さらに225メートル進んだところで停止した。 さらにブレーキ開始から停止まで、列車は最大ブレーキをかけていたと考え、この間は加速度(減速度)一定αであったと考える。 ブレーキかけ始めの時刻をt0とすると、t秒後の速度vは、初速度をv0として、
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