特定非営利活動法人失敗学会 |
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アメリカ、ハリケーン被害
サイドローズエルピー、ゼネラルパートナー
飯野謙次
【シナリオ】
【概要】 2005年大西洋西側沿岸のアメリカ合衆国(以下、アメリカ)南東岸、メキシコ、 カリブ諸島は6月から翌年1月にかけて大小31のサイクローン、内15はハリケーン、 に見舞われ、嵐による直接死者は2,000人余り、間接的に死に至った場合を含めると死者3,800人を超え、 被害総額は14兆円を超えた。この地区は北大西洋地域と呼ばれている。 発生したサイクローンのうち、上陸をしたものは18、内上陸ハリケーンは10。 最も大きな被害をもたらしたのは8月25日から29日にかけてアメリカ南部に上陸した12号サイクローンのカトリーナだった。 メキシコ湾沿いのルイジアナ州ニューオリンズ市では、8月30日、カトリーナによる10mの高波で堤防が50か所以上にわたって決壊し、 市の80%以上が浸水した。27日の避難勧告、翌28日の避難命令で、ほとんどの住民は避難していたものの、 取り残された人々の救助などで警察等の警備が手薄になったところ、略奪、暴行、殺人までが発生した。 カトリーナによる直接死者数は1,836、被害総額はほぼ9兆円であった。 【背景】 熱帯低気圧(熱帯性低気圧とも呼ぶ)は、熱帯や亜熱帯で発生した低気圧で、強い風と雨を伴う。 周りから中心に向かって流れこむ空気がコリオリの力によって北半球では反時計まわりに回りながら、 積乱雲が渦巻き状に形成される。大きさは直径300から2,000キロメートルとされる。 中心になるほど風速が速いがちょうど中心は目と呼ばれる風が弱く、雲が少ない部分である。勢力の強い熱帯低気圧ほど中心は穏やかである。 熱帯低気圧の呼び名は、その強度分類とともに国によって異なる。 サイクローン(cyclone)は、アメリカで使用される熱帯低気圧も含めた総称で、最大風速が33m/s を超えるとハリケーン(hurricane)と呼ばれる。 図2に本災害による被害が最も大きかったアメリカの分類を日本の気象庁の分類と比較する。 この図を見てわかるように、アメリカが遭遇するハリケーンは、日本の台風に比べて強力なものはスケールが上方まであることから、 総じてより強いものがあると考えられる。ただし、最大風速の定義が気象庁の場合は10分間の平均風速であるのに対し、 アメリカ国立測候所(NWS)は1分間のものである。 台風情報などでよく聞かれる最大瞬間風速とは、一定時間内の平均値ではなく、観測された最大の風速である。 図2 気象庁の台風区分と米国NWSのハリケーン区分 参考文献1.4によると、後者は前者に対して14%高いとあるが、その分を考慮してもスケールがより上方まで続いている。 参考文献1.2では、最強ハリケーンの最大風速を85m/sと見積もっている。ハリケーンの1-5の強度分類(カテゴリ)は、 最大風速による単純なサフィール・シンプソンのハリケーンスケール(Saffir-Simpson Hurricane Scale)として知られている。 2005年のハリケーンにより、被害の大きかった地域を図3に示す。 図3 2005年ハリケーンで被害を受けた地域 最も被害が大きかったのは、カトリーナによる洪水のあったニューオリンズである。図3中、四角で囲んだ部分を拡大したのが図4である。 ニューオリンズは、ルイジアナ州都バトンルージュから東南東に100kmの、人口29万人弱、 面積973平方キロメートルの市で、北側にはポンチョトレン湖があり、市中南側をミシシッピ川が蛇行しながら流れている。 南北戦争前はアメリカ最大の奴隷市場を持つ港町として大いに栄えた。 20世紀初頭も新しい排水システムの発明により繁栄は続いたが、次第に地盤沈下が激しくなり、 アトランタやヒューストンといった他の南部都市の勃興もあって次第にさびれていった。 現在はジャズのメッカとして観光産業が大きな収入源となっている。 図5は、図4中点線で示した部分の断面である。わかりやすいように高低を500倍に拡大してあるものの、 最も低い部分で海抜マイナス2m、ミシシッピ川平均高水位より6m余り下がっていることがわかる。 地元大学の研究によると、海抜ゼロ以上の面積は市の51%しかなく、最も高い地点で海抜5m 、低い地点がマイナス3mで平均はマイナス0.5mとされている。 ニューオリンズの堤防は、1965年の洪水防護令により、それまでルイジアナ州の管轄により設計・構築されていたものを、 米国陸軍工兵隊の管理下に移されていた。米国陸軍工兵隊によるニューオリンズの堤防強化プロジェクトは2015年に終了予定だった。 本災害のあった2005年には場所により、6から9割の完成だった。 米国陸軍工兵隊とは、アメリカ合衆国軍関係者650名、一般市民34,600名からなる世界最大の公共のための設計・建設管理組織である。 図5 ニューオリンズの低地盤問題(図4の点線断面。高低を約500倍に拡大) 【経過】 表1は、2005年に北大西洋地域で発生した全ての熱帯低気圧の規模と被害総額と死者数を示す。 北大西洋地域では1953年以降、熱帯低気圧に人名を付けるようになったが、1979年以降、 第1文字がアルファベット順になる男子、女子名のあらかじめ決められたリストに従い、 発生順につけるようになった。世界気象機構(WMO)はこの名前リストを6個管理し順番に使用する。 ただし、大きな被害をもたらしたハリケーン名は、以後使用しないよう申請があればWMOの審査後、 他の名前で置き換えられる。アルファベットの文字中、Q, U, X, Y, Zは北大西洋地区では使用されず、 すなわち21個の名前が用意されているが、本記事対象の2005年は21個では足りず、これもあらかじめ決められているが、 初めてギリシャ文字が使用された。名前が付けられず、発生順の番号で呼ばれたり、 番号さえつかないものがあるのはアメリカ国立ハリケーンセンター(NHC: National Hurricane Center) が後日、 記録を調べて区分を訂正するためである。以下に表1の各ハリケーンについて、詳述する。
デニス(Dennis)ハリケーンカテゴリ4、7月4日-7月13日 記録的なハリケーン発生と被害を見た2005年北大西洋ハリケーン期において、デニスは早期に発生した勢力の強いハリケーンであった。 7月までに発生したハリケーンとしては、記録を次々に塗り替えたものの、その6日後に発生したエミリーによりそれら記録は塗り替えられた。 デニスはカテゴリ4期にキューバに2回、カテゴリ3の時にアメリカフロリダ州に上陸し、アメリカやカリブ海諸国を合わせて89人以上の死亡、 約4,500億円の損害をもたらした。図6にその軌跡を示す。 熱帯低気圧4号として7月4日カリブ海南東部に発生したデニスは、勢力を強めながら西北西に進み、6日にはカテゴリ4に成長、 ジャマイカとハイチの間を抜けてさらに勢力を強めながらキューバに接近した。 7月7日、アメリカ東海岸夏時間午前11時にキューバに対してハリケーン警報が発令され、デニスはキューバに上陸しカテゴリ3に弱まったものの、 海上に戻って勢力を巻き返し、最大風速61m/sのカテゴリ4となって再びキューバに上陸した。その後キューバ山間部でカテゴリ1まで勢力を弱めたものの、 北北西に進路をとったデニスはメキシコ湾上で再び勢力を取り戻し、アメリカに接近した。10日朝にはフロリダ州西部、アラバマ州、 ミシシッピ州にハリケーン警告が発令されていたが、同日アメリカ中部夏時間午後2:25のフロリダ州西端上陸直前に最大風速54m/sのカテゴリ3まで勢力が落ち、 11日には熱帯低気圧として北上、カナダのオンタリオ州で13日に消えた。 デニスに直撃されたキューバでは、死者16名、ハイチでは直接死者数が16、間接的理由によって死亡した者も含めると確認されただけでも死者56名、 未だに行方不明者が24名いる。当時の報道によると、当局の避難命令にも拘わらず、沿岸部では相当数の地元民がその命令を無視し避難しなかったようだ。 これに対して、直接死者4名にとどまったアメリカでは、初夏の賑わいを見せていたフロリダ、キーズから5万人の観光客、 直撃されたパンハンドル地区からは70万人もの人を避難させていた。 この早い対応と、デニスが小型で移動が速く、メキシコ湾上での発達が小規模のままフロリダに上陸した時には最大風速54m/sとカテゴリ3に勢力が衰えたこと、 さらに上陸後の動きも速かったため、アメリカの被害は予想を下回った。図7はデニスに破壊された町並み。 フロリダの北側に位置するジョージア州でも被害があったが、メイブルトン市に住むマリアン・ランスフォードがインタビューに答えた言葉が、 いきなり被災した様子をよくあらわしている[参考文献8.1]。 「テレビで何回も見ていたけど、まさか自分の身に起こるとは夢にも思わなかったわ」 デニスがジョージア州達した月曜朝、ランスフォードは2階で報道を見守っていたところ、1階から上がってきた飼い犬の足がびしょ濡れ。 慌てて階下に降りてみると1階は床上27センチまで浸水、地下事務所と家の前に停めてあった2台の車は完全に水没していた。 エミリー(Emily)ハリケーンカテゴリ5、7月10日-7月21日 7月10日遅く、大西洋中部で発生した熱帯低気圧は勢力が強弱しながら不安定に西進。 デニスが暖めたカリブ海上で13日にはハリケーンに発達後、トバゴ島をかすめて14日グレナダに上陸。 その後カリブ海南西部を、今度はカテゴリ2と5の間を勢力を揺らせながら西北西に進んだ。最大風速は一時72m/sにまで達していたことが後でわかった。 7月18日、コズメル島の真上を通過したエミリーは、カテゴリ4の勢力を保ったままユカタン半島に上陸。 山間部で一時勢力を最大風速33m/sまで弱めたものの、メキシコ湾上で再び勢力をもりかえし、最大風速56m/sにまで達した。 その後、再びメキシコに近づくも勢力を弱め、カテゴリ3のハリケーンとして上陸したがすぐにメキシコ北東部で弱まり消えた。 図8はエミリーの軌跡である。 エミリーの直撃を受けたグレナダは、その前年9月のカテゴリ5ハリケーン、アイバンによる大打撃から回復しきっていなかったため、 エミリーに追い打ちをかけられたことになる。死者こそ報告は1名と少なかったが、家屋や病院等が被害を受け、 この総面積344km2、人口9万人弱、国内総生産4億米ドルの小さな島国で被害総額は1億1千万米ドルを超えた。 その他のカリブ海諸国では、鉄砲水による死者が5名あったジャマイカで被害総額6,500万米ドルとなった他、 トリニダードトバゴ、ホンジュラスでも被害があった。 メキシコの代表的リゾート地として知られるカンクーン、コズメル島のあるユカタン半島では、近代化したカンクーンのホテルは被害が少なかったが、 伝統的様式のままの古いホテルは大打撃を受けた。ただし、16日から17日にかけて、旧式建物の観光客や居住者には避難命令が出たため人的被害はほとんどなかった。 メキシコ北東部でも、カテゴリ3となって上陸したエミリーにより、地元漁業などが打撃を受け、メキシコの被害総額は6億3千万米ドルを超えた。 エミリーの接近を見たアメリカテキサス州では被害が小さく、むしろその雨により干ばつ被害から救われた地域もあった。 カトリーナ(Katrina)ハリケーンカテゴリ5、8月23日-8月30日 バハマ上空の不安定な空気が8月23日熱帯低気圧、25日にはハリケーン成長してフロリダ南端に上陸。 数時間後にメキシコ湾に抜けて28日には最大瞬間風速78m/s、中心気圧902hPaのカテゴリ5に成長したものの、 その後カテゴリ4、3と徐々に勢力が衰え、最大風速56m/sでルイジアナ州南東部に上陸。 やはり数時間後にニューオリンズ東の海上ブレトンサウンドに抜け、29日朝、ミシシッピ州南端、 ルイジアナとの州境に最大風速53m/s のカテゴリ3のまま最後の上陸をし、その後、ミシシッピ州を北に縦断しながら勢力を落とし、 北東に向かってエリー湖南で消えた。図9はその軌跡である。 カトリーナはフロリダ州中部からテキサス州までの広範囲に、9メートルを越える高波による被害をもたらした。 特にルイジアナ州ニューオリンズでは台風の直接被害は少なかったものの、米国陸軍工兵隊により築かれていた堤防が53箇所で決壊、 ニューオリンズの80%が浸水し、その後何週間にも亘って水が停留した。図10は水没したニューオリンズ市街の様子である。 記録にある大西洋ハリケーンでは6番目の規模であったカトリーナによる直接死者、その後の洪水による死者は計1,836名以上、 1928年のハリケーンオキチョビーによる4,000人越の死者数に次いだ。また、被害総額は800億米ドルを超え、史上最悪であった。 ハリケーンカトリーナの接近に伴い、米国立ハリケーンセンターは、注意報、警報と徐々にその警告を高めていき、 上陸の2日前、27日にはブッシュ大統領が緊急事態を宣言した。ただし、この宣言からはもっとも被害を受けたルイジアナ州の海岸沿いは含まれておらず、 後に公聴会で問題とされた。上陸前日には、米国立ハリケーンセンター長がカトリーナによる高波が堤防の高さを越える可能性を警告し、 ブッシュ大統領は同日、ニューオリンズ市に避難命令を出すようルイジアナ州知事に伝えた。 そして、ルイジアナ州南東部、ミシシッピ、アラバマ両州の海岸部、合わせて120万の住民を対象に、避難勧告、あるいは避難命令が出された。 そして、カトリーナ通過後も、この地域から100万人以上の人が米国内の他地区への移住を余儀なくされた。 カトリーナは、都市部に被害をもたらしたのみならず、海岸線も侵食し、 その後のリタによる侵食と合わせて560平方キロメートルの陸地が水没したと見られている。さらにニューオリンズ市街から、 43日間をかけて排出された水はポンチャトレン湖に注がれ、バクテリア、金属分、農薬や石油による汚染が心配されている。 8月30日、カトリーナ通過後、ニューオリンズに残っていた住民が地元商店の略奪を始めた。 食料や飲料水という生活必要物資の略奪が多かったものの、生活に必要のない高価なものを狙った略奪や、火器を使った強盗もあった。 生活必要物資を求めて始まったものの、ハリケーン通過後の救助活動に人員を割かざるを得なかった警察力が手薄になった状態で、 十分な警備ができなかったのも事実である。この悪条件の中、人々のうわさには略奪のほか、殺人、レイプ、銃の射撃までが上ったが、 後の調査では実際には単なるうわさだったものが多かった。 特に2万人を越える人が一時避難した競技場スーパードームでも、麻薬使用、喧嘩等のうわさが広まり、一時は100人の死者が出たと噂されたが、 実際には死者は6名にとどまった。8月31日には公衆衛生の緊急事態が発令され、スーパードームの避難者も含めてニューオリンズに残っていた住民は、 ルイジアナ州知事の命令で他所に移された。図11は避難の様子である。 リタ(Rita)ハリケーンカテゴリ5、9月18日-9月26日 9月17日、キューバ西部、ハイチ北部洋上に位置するイギリス領タークス・ケイカ諸島(TCI: Turks and Caicos Islands)上空で発生した低気圧は、 18日には熱帯低気圧に成長、フロリダ州南端から南西に伸びる列島、フロリダキーズには、避難命令が出された。 9月21日朝、米国立ハリケーンセンターは、リタが最大風速44m/s のカテゴリ2のハリケーンに成長と発表。] メキシコ湾洋上を西進したリタは暖められて急速に成長、米国中部夏時間21日午後3時55分にはカテゴリ5となり、午後10時には最大風速81m/s、 予想中心気圧895hPaにまで達した。お天気専門テレビのレポーターは、その中心を飛行中に最大瞬間風速106m/sを測定した。 リタは、最大風速51m/sのカテゴリ3に勢力を弱めた後、9月24日米国中部夏時間午前2時38分、テキサスとルイジアナの州境辺りに上陸。 ミシシッピ州南部をすばやく通り抜けて寒冷前線に吸収された。図12はリタの軌跡である。 リタによる死者は、テキサス州の113名を含めて120名。被害総額は100億米ドルを越えたものの、風による高波の平準化、思ったより雨が少なかった等により、 予想を下回るものだった。 リタの初期被害をこうむったフロリダ州とキューバでは合わせて34万人以上が避難勧告、あるいは避難命令を受けていた。 フロリダキーズでは高波による洪水があり、列島をつなぐ橋には通行できない箇所ができた。 フロリダ州の一部では緊急事態が宣言され、2,000人を越える国防軍兵士や警察が配備された。 幸いにも、リタによる直接被害でフロリダ州とキューバでは死人は出なかったが、 まだリタが海上遠くにあった時の引き波(離岸流)にさらわれてフロリダ州で2名が死亡した。 8月下旬のハリケーンカトリーナにより、堤防の決壊と洪水による甚大なる被害をこうむったニューオリンズ市では、 リタの接近とともに9月19日に予定されていた市の再開をキャンセル、21日には再度避難を命じた。 リタは予想されていた上陸地点よりかなり西よりに上陸したため、被害は思ったよりも少なかったものの、 カトリーナにより壊され、あるいは修復中の堤防にリタ上陸前の高波が襲いかかり、上陸の前日9月23日、町は再び洪水被害にさらされた。 リタが上陸したルイジアナ州南西端では、9月22日午後6時までという刻限付きで避難命令が出された。記録された瞬間最大風速は80m/s。 テキサス州知事はカトリーナ被害の復旧作業などに当たっていた国防軍州兵など、3,000名近い人員をテキサスに呼び戻し、リタに備えた。 9月22日には避難のため、主な高速道路をリタの上陸予想地点から離れる方向への一方通行にする特別規制をしいた。 上陸が予想された地域の一部では9月21日に避難命令がそれぞれの行政区から出された。 それらの中には、医療施設の集合地区では世界最大のテキサスメディカルセンターや、スペースシャトルの打ち上げで知られるジョンソンスペースセンターなどがあるヒューストン市も含まれていた。 ヒューストンはテキサス州最大の都市として、周りも含めたメトロポリタンエリアには570万人の人が住んでいる。 行政側が出した避難勧告や命令は、居住区をゾーンに分けて徐々に実現するものであったが、避難対象区外に住む人も含めて住民は高速道路に殺到、 22日には全車線下りとなった高速道路も全く動けないほどの渋滞となり、ガソリン不足もあって渋滞が解消するには48時間を要した。 図13は、この渋滞の様子である。この間、日中の気温は摂氏38度に達し、ガソリンを節約するためにエンジンを切った状態で健康を害し、 リタ上陸の翌週、翌々週に命を落とす高齢者が多々あった。これら死亡者はリタによる死者数に数えられていない。 2日間の高速道路渋滞を引き起こしたのは、ヒューストンメトロポリタンエリアから避難をした300万人以上と言われている。 一方、カトリーナ通過後の略奪の報道や、ハリケーンの怖さを体感していなかったこともあって、避難命令にもかかわらず自宅に残った人も大勢いた。 図13 ハリケーンリタに備え、テキサス州ヒューストンから避難する 車による渋滞。特別規制で上り車線も下りになっている スタン(Stan)カテゴリ1、10月1日-10月5日 9月17日、アフリカ沿岸で発生した低気圧は、10月1日、カリブ海西部に到達、熱帯低気圧に成長していた。 トロピカルストーム(図2参照)まで成長したスタンはコズメル島南端をかすめてユカタン半島に上陸、一旦低気圧まで弱まったものの、 海上に出ると再び勢力を増して西進し、10月4日午前にはカテゴリ1のハリケーンとしてメキシコに再上陸。同日午後にはトロピカルストームに弱まった。 カテゴリ1と、風速こそ弱いほうであったが、スタンはメキシコ始め、中央アメリカのガテマラ、エルサルバドール、ニカラグア、ホンデュラス、 コスタリカなどに豪雨による鉄砲水や地滑りによる多大な被害をもたらした。降雨量は500mmを超え、死者はガテマラの1, 500人以上を含めて全体で1,662人以上。 被害総額は20億米ドルを越えた。図14はスタンの軌跡である。 ウィルマ(Wilma)カテゴリ5、10月15日-10月25日 10月13日、ジャマイカ南西の海上に発生した低気圧が成長、10月15日には熱帯低気圧となった。始めのうちは成長も遅く、 進路もはっきりせずに南西方向にふらふらと動いていたウィルマだが、10月18日から19日にかけてカリブ海上にて急速に勢力を伸ばし、 最小気圧882hPa、最大風速83m/s と、大西洋記録史上最大勢力のハリケーンとなった。 その後勢力を弱め、10月21日にコズメル島、続けてメキシコ大陸部に上陸した時には最大風速67m/sのカテゴリ4になっていたものの、 その後、北西に進路を変更し、最大風速54m/sのカテゴリ3と勢力を弱めながらも依然強いハリケーンとしてフロリダ半島南端西側に上陸。 4.5時間でフロリダ半島を横断、大西洋に抜けた後は最大風速49m/s に弱まったものの洋上で56m/s に勢力を盛り返すも、その後弱まり、 カナダ北東部で他の低気圧に吸収された。図15にウィルマの軌跡を示す。 メキシコを始め、中央アメリカ諸国では学校閉鎖、避難命令など十分な警戒態勢がしかれた。フロリダキーズ周辺では避難命令が発令、 人々は学校等の公共施設でウィルマの通過を待った。 しかしハイチでは土砂崩れにより12名が死亡したほか、直接、間接合わせてメキシコで8名、フロリダで36名、他の国も合わせて合計39名の死者が出た。 ジャマイカでは10月16日から18日の3日間、ウィルマが滞留し、洪水や土砂崩れを引き起こした。ジャマイカの被害総額はおよそ100億円に達した。 メキシコのリゾート地として知られるカンクーンでは、北東沖合いのイスラ・ムヘーレス島で1637mmの豪雨を記録した他、 5mを超える高波、洪水、強風による家屋の破壊など甚大な被害を受け、被害総額は75億米ドルに達した。 【原因】 ハリケーンの発生は自然現象であるため、その発生原因を本記事では解説しない。記録的なハリケーン被害をアメリカ合衆国および中央アメリカに残した2005年であったが、 失敗はハリケーンに対する準備と対応である。このように次々と記録的なハリケーンがアメリカ大西洋沿岸を襲ったことはなかったが、フロリダ州の2,500人など、カリブ海、 バハマを合わせると死者合計4,000名を超えた1928年のカテゴリ5のハリケーン、オキチョビーがあった。 表2に歴代の大西洋ハリケーン順位をその中心気圧、総被害額、死者数について示す。 ハリケーン名に二重引用符が着いているのは、経過に述べたアルファベットの命名システムが確立されていない時代のものである 。 (a) 中心気圧順位
(b) 被害総額順位
(c) 死者数順位
各地で大きな被害を出した2005年のハリケーンシーズンだったが、最も大きな被害は1,800名を越える死者を出したカトリーナによるニューオリンズの洪水被害である。 図16に、ニューオリンズ中心部において堤防が決壊した地点を示す。図5でもわかるように、ニューオリンズ中心部は、ポンチャトレイン湖、ミシシッピ川の水位よりも低い。 当初、堤防を設計、施工した米国陸軍工兵隊は、想定外の高波が堤防を越え、居住区側の土壌が緩んで堤防が決壊したと説明していたが、 高波が堤防を越えない状態で決壊していた証言が相次ぎ、I型堤防壁に問題があったことを翌2006年4月に認めた。 図17にI型堤防が水圧に押されて決壊するメカニズムを示す。“T”の字をさかさまにしたT型壁であれば、強度はもっと増すことがわかる。 ただし、施工のコストは、鋼鉄製の壁を押し込めばいいI型に比べ大きい。図18にI型堤防壁の緊急補修の様子を示す。 図17 水位上昇でI型堤防壁が倒れるメカニズム ニューオリンズにおけるカトリーナによる被害をさらに拡大したのは、行政の対応の悪さである。まず、緊急避難命令が発令されたのは、カトリーナ上陸の19時間前であった。 また、食料、水、警護、衛生など、生活必要物資の準備も十分になされないままに避難命令を出した後手の対応も非難された。 強力なハリケーンという非常事態に対する準備不足が如実に現れたと言えよう。 行政による避難命令のまずさは、リタの時も露呈した。600万人近いヒューストンメトロポリタンエリアの住民を、いくつかの地域に分けて順番に避難させれば人は整然と避難すると思ったようだ。 ふたを開けてみるとパニックに近い状態で人が高速道路に殺到し、身動きできない状態になってしまった。人の心理状態を無視した避難命令に人々が右往左往する結果となった。 【対処】 対処については、ハリケーンカトリーナについてのみ記述する。 カトリーナに対するFEMA(米連邦緊急事態管理局)による対処は、十分とは言えなかったものの、上陸前からそれは始まっていた。 物資輸送路の確保や、死体処理の冷凍車まで用意されていたのは皮肉である。ニューオリンズに取り残された6万人のうち、沿岸警備隊が3万人以上を救助し、 その他、アメリカ全50州から州兵が救助に投入され、その人数は5万8千人にも及んだ。 アメリカ連邦議会は600億ドルを超える支援金を承認し、FEMA は、家を失った人々のためにホテルや仮住居を長期に亘って提供した。 他の州からも警察や消防などから応援が駆けつけ、また避難者は、ルイジアナを離れてアメリカ全土に散らばった。 海外からの支援も多く寄せられ、クェートから5億米ドル、カタール、アラブ首長国連邦からそれぞれ1億米ドル、韓国から3千万米ドルなどが約束された。 日本は20万米ドルをアメリカ赤十字社に、その他に30万米ドル分の緊急物資を送るにとどまった。 カトリーナ被害の後、米国国土安全保障省(DHS)はFEMAに調査官を派遣した。半年の調査後、FEMA内部組織に関する痛烈な批判をする報告書が提出、公開された。 報告書ではブッシュ大統領を筆頭とする連邦政府、ブランコ知事を筆頭とする州政府を始め、調査官自身が所属するDHS、特にその下部団体FEMAについて、対応の遅れやまずさについ て問題点を鋭く指摘している。FEMAは1979年、その前身である複数の組織を統合する形で、時のジミー・カーター大統領命令による設立から現在に至っている。 地方自治体の対応能を超える災害に、連邦政府レベルの行政で対応する使命を追っている。 しかし設立後、保険、火災、気象、民間国土防衛など次々にその機能が増え、 1996年には東京で発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件を教訓にテロリスト対策をまで抱え込むことになった。 そして2001年のワールド・トレード・センター同時多発テロ以降、FEMAの関心はテロ防止が中心となり、元来の自然災害に対する対応能力はどんどん退化していた。 2005年はFEMA誕生から26年経ったところであった。 【知識化】
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