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2025年、プチ遠足


日時:2025年1月24日(金)、8:30-16:00
場所:和歌山県広川町
参加者:三田薫、飯野謙次、平松雅伸、岩崎雅昭、松野昭弘

08:30 JR茨木駅西口タクシー乗り場集合、三田号乗車
10:30 稲むらの火の館濱口梧陵記念館・津波防災教育センター訪問
11:30 道あかり、昼食
11:45 広村堤防散策
12:30 濱口梧陵稲むらの火像
12:40 耐久中学校、濱口梧陵翁像
13:15 濱口梧陵墓
13:25 濱口梧陵碑
13:30 廣八幡宮訪問
14:00 広川町出発
16:00 JR茨木駅解散

 2月1日の Forum 209 で舞洲(まいしま)を訪れたが、1月の大阪フォーラムは1月25日の予定だった。
 その予定が2月に先送りされる前に、三田さんから「前日に稲むらの火を見に行きませんか。茨木から車ですぐでっせぇ」と誘われ、「行きましょう」と予定をしていた。「後ろ2席が空いているし、せっかくだから、失敗学会イベントにしましょう」と話しがまとまり、金曜日だから参加できる人も少ないはずとプチ遠足をアナウンスしたら、ちょうど平松さんと、岩崎さんの2名が応募された。5人目松野さんは、四国から自分の車で参加、現地合流した。

 私は自分の中で、稲むらの火の話と稲村ジェーンを混同していて、稲むらの火は鎌倉辺りの事だと勘違いしていた。子供の時、稲むらの火の話はテレビで見ていて覚えていたのだが、ここでも混乱があって濱口梧陵が火をつけたのは、自分の家だと記憶していた。稲むらの火の館で無料配布している小學國語讀本の抜き刷りを読むと、火をつけたのは稲むらという「刈り入れ後の稲束、もしくは脱穀後の稲藁を積んで丸い小屋のような形にしたもの」である。その火を見た村人が「庄屋さんの家が火事だ」と勘違いしたのだそうだ。ただし、これも讀本の文章を書いた人の創作のような気がする。

 江戸末期、1884年から数年にかけて日本各地で地震が発生した。稲むらの火の話しの前兆となったのは、1854年12月23日午前9時30分ごろに発生した安政東海地震である。その翌日、午後4時ごろに安政南海地震が発生し、その後の津波で多くの人が被災するが、濱口梧陵は自身も波にのまれながらも、村人に廣八幡神社に避難するよう呼びかけた。何時ごろに到着したかは不明だが、12月午後4時を過ぎると辺りは暗くなってくる。濱口梧陵は、被災してどこに向かえばいいかもわからない村人たちのため、稲むらに火をつけることを思いつき、次々に火を放った。人々はこの明かりを頼りに次々と廣八幡神社に向かって丘を登って助かったそうだ。ただしこの美談の裏には、この時の地震や津波で命を奪われた人もいたはずで、その数字は不明である。

 濱口梧陵の話はここで終わりではなく、地震、津波で多くを失った人たちに、防災のために堤防を築くことを考え、村人の雇用を行った。国に史跡指定され、今も残っているこの堤防を私たちも歩き、その偉業に触れた。この堤防は、1946年の昭和南海地震の際、1930年に合併で広川町となっていた地区の人々を津波から守ったとのことだ。
 津波の規模が違うから、単純に比較はできないが、江戸時代に完成した堤防が今でも史跡として残されていることは感慨深い。またこれも災害の規模が違うからかも知れないが、当時の村人に仕事を与える事業を考え、地域の復興に漕ぎつけたのは今の日本ではできないようである。

 ひとしきり、稲むらの火を学習し、津波防災教育センターで津波防災について知識を得た私たちはそこからしばらく徒歩の散策に出かけた。


濱口梧陵記念館の前で記念撮影

 時は 11:30。昼食には少し早いが「道あかりは混むから気ぃつけや」と大阪の友人に聞いていた私は、堤防散策の前に昼食を済まそうと提案し、記念館の向かいにある広川町物産販売店の2階に上がった。その時間なのに、客席は7割がた埋まっており、私たち5人は1つのテーブルに落ち着くことができた。

 道あかりから広村堤防までは200メートルもない。三田さんの先導で、堤防、水門、説明看板を読み、「ここから防災学」の道を歩いた。文化庁日本遺産の看板には、濱口梧陵が残した言葉として「是れ此の築堤の工を起こして住民百世の安堵を図る所以なり」と記されていた。

長さ600、基底幅20、高さ5mの広村堤防

 向かったのは、広川町役場。そこにあるという濱口梧陵のブロンズ像を見ようというわけだ。到着してみると町役場の裏側にあり、土台には、1996年11月吉日、館野弘青作と刻まれていた。もちろん作者は濱口梧陵が松明をもって稲むらに火をつけるところを見たわけではない。だからこの像は作者の物語を元にした創造である。絵は何かを見たかもしれない。
 1986年の三陸大津波の後、「耳なし芳一」などの「怪談」で知られる小泉八雲(Lafcadio Hearn)は"A Living God" を著したが、濱口梧陵を Hamaguchi Gohei とし、湾を見下ろす高台に住んでいたとして

濱口梧陵ブロンズ像

いる。
 人の心を打つ史実を、多くの人に知ってもらおうとする芸術は、往々にして事実と違っていることがある。しかしその効果は絶大で、見た人、読んだ人の心に残るのである。司馬遼太郎の小説は面白いけど、歴史の教科書はつまらない所以である。
 ちなみに上述の"A Living God"は、太平洋災害センター(Pacific Disaster Center)のホームページで原文が紹介されていたので外部リンクを貼っておいた。

 この後は車に分乗し、濱口梧陵が創設した私塾、耐久社、今の耐久中学校、その校庭にある濱口梧陵像、濱口梧陵墓、廣八幡神社と見て回った。2024年の選抜高校野球で1回戦で敗退したものの、耐久高校が出場していた。

 廣八幡神社には、国指定重要文化財がいくつもあった。その美しい造形が今でも思い浮かぶ。ここでは稲むらの火祭など、濱口梧陵がこの神社に人を導いて避難させたという事から、営々と行事を行って人々の防災意識を高めている。それだけではない。ホームページを見て、毎月防災訓練、毎年子供を中心とした避難訓練を行っていることを知った。私たちはいつの間にかこの神社の宮司さんと話し込み、多くのことを学んだ。最後には快く、集合写真のボタンを押していただいた。


廣八幡神社で記念撮影

【飯野謙次】
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