特定非営利活動法人失敗学会 |
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テキサス出張 - 失われた金頭の杖本出張は、畑村創造工学研究所の全面的支援により実現しました。ここに改めて御礼を申し上げます。 「はい、こちらはマイクです」 8月6日、失敗学会本郷事務所からの国際電話は、気持ち良く迎えられ、ここから全てが始まった。 畑村会長と私は、日系一世のアメリカ人医師、ニカイドウ・ヒサシさんを訪ねてテキサス州まで出かける計画を立てていた。 ニカイドウさんは、2003年8月16日、テキサス州ヒューストン市クリスタス・セント・ヨセフ病院で起きたエレベータ事故により、 ご子息を亡くされていた。 それは港区で、降りようとした男子高校生が、ドアが開いたまま急に上昇したエレベータの事故で落命した事件のおおよそ3年前のことになる。 ニカイドウさんの事件は、その悲惨さからテキサスのみならず、他の49州も震撼させたに違いない。 ニカイドウ・ヒトシさんはその時、エレベータの扉に挟まれた。それにも拘わらず、エレベータかごが上り始め、 同氏の頭部を烈断、その大部分を引きちぎった。かご内に取り残された同僚の女性はヒトシさんの上頭部とともに、 かごの中に1時間以上閉じ込められた。 原因は、保守作業の際の制御ボックス配線のミスであった。エレベータの扉が開いたままであることが検知されず、 上がれという制御コマンドのままにエレベータが動いたのだ。 畑村会長は、2006年の港区での事故の後、個人的に知己のあった医者から、このヒューストンでの事故について知らされた。 これは、現地・現物・現人を訪ねなければならないとの会長の強い思いから、会長と私はヒューストン、ダラスへの旅行を計画することになった。 テキサス州は、700平方キロメートル弱でアラスカに次いで全米2位の面積を誇る。人口は2,400万人でカリフォルニア州に次ぐ。 日本には、テキサス州人口のおよそ5倍の 1億 2,700万人が住んでいるが、その面積は、テキサス州の半分より少し大きいだけである。 ヒューストン市人口は220万人と全米4位、ダラスは130万人と8位である。 大都市地区では、ダラス - フォート・ワース - アーリントンが630万人で全米4位、 ヒューストン - シュガー・ランド -ベイタウンが570万人で6位である。 私の世代は、テキサスと聞くと、ジェームズ・ディーン主演の映画“ジャイアント”、テレビシリーズの“ダラス”、 アメフトのダラス・カウボーイズ、バスケットボールのヒューストン・ロケッツ、ダラス・マブリックス、 メジャーリーグのテキサス・レンジャーズやヒューストン・アストローズを思い浮かべる。 もっとも最近は、スペース・シャトルへの司令を発するジョンソン・スペース・センターがある所としてヒューストンはなじみが深い。 私達は最初、ニカイドウ家の訴訟を扱った弁護士とアポを取ろうとした。しかし、その秘書と何週にも亘って交渉した後、 ついにあきらめて事故のあった病院を訪問し、その翌日、ヒトシさんの父親、ヒサシさんに会ってインタビューをしようということに落ち着いた。 だが、待てよ!畑村会長は遠路はるばる日本から行くのだし、私はサンホゼから駆けつける。その事故について知っている他の人に会う手立てがあるはずだ! その時、私は手がかりをインターネットに求めた。そして、テキサス州政府によるページ“エレベータ・エスカレータ、および関連機器の安全と認可” と題されたページを見つけた。 こいつは驚いた。テキサス州には、エレベータ・エスカレータとその関連機器の認可と規格専用のページがある! 東京都のホームページではそんなものは見つかるはずがない。 私はさっそくテキサス州政府に宛てて、面会を求めるメールを打っていた。 予想通り、州政府の方からさっそく返事が来、マイク・ドロスクさんを紹介してくれた。 間髪を入れずに時差を計算し、私は返信メールに書かれた電話番号を打っていた。そしてその時、「はい、こちらはマイクです」の返事を聞いたのだ。 私は、我らが何者か、なぜテキサスを訪問するのか、なぜマイクさんと面会をしたいか、少なくとも3分間まくし立てたと思う。
アメリカで電話で話すのは、時にずいぶん事情が違う。
日本では、聞き手は時々声を発して、聞いていることを相手に伝える。
日本でアメリカ流の聞き手をやると、話し手に『もし、もしっ』と不安げに聞かれてしまう。
そこで今では、日本では日本流の聞き手をやるようになった。すなわち数秒ごとに何らかの声を発して聞き手を安心させる。 アメリカでは、聞き手が黙っていても話し手は意に介さない。一方が、相手の返答を待つのに止まるまで、何分もしゃべり続けることがある。 このため、日本の会社員にとっては、英語人と電話で話すのが一番難しいかもしれない。 東京大学準教授となった土屋健介さんの失敗学会会員歴は長い。彼もマイクがエレベータ・エスカレータについて語るのを聞くため、一行に加わった。 他人から重要な情報を収集する段になると、本人に直接聞くのがベストだ。私達3人は、十分時間を持たせてホテルを出発、市のビルの場所を確認し、 その扉を叩く前に近くのマクドナルドに寄った。そして、ビルに入ると、ヒューストン市役員室付上席スタッフ審議官のアルビン・ライト氏がにこやかに出迎えてくれた。 彼は、私達が裏だと思った方から慌ててやって来たのだが、じつはアルビンは表で私達を待っており、私達が裏から入ったのだった。 そしてマイクを見つけ、5人は会議室に向かって階段を上がっていった。 ヒューストン市では、社外の機関による検査を毎年行わなければならない。検査結果は市に報告され、市は、エレベータ所有者に各エレベータの合否を通知する。 不合格の場合は、所有者が問題を解決しなければならない期限を提示する。 アメリカ機械学会(ASME: American Society of Mechanical Engineers)は、規格 A17.1“エレベータ・エスカレータの安全基準”を発行している。 ASMEホームページによると、 本規格の初版は1921年に25ページの冊子として発行された。最新のものは2007年版で、500ページからなる書類になっている。 ドロスクさんは ASME A17委員会の委員でもある。 “2000年版では、新しい規格が2つ追加されました。1つは、かごの上昇速度、もう1つは、戸開走行についてです。 後者は、ドアが開いたままかごが動いた時にブレーキをかける仕組みを規定しています”とそれからマイクは続けた “これは、主ブレーキ系とは別に設置しなければならないのです” この言葉に私達は驚いた。日本のエレベータにはそのような規定はない。私達が、アメリカとカナダで2000年に行われた規格改訂を知っていたなら、 2006年の事故はおそらく起こらなかっただろう。 会議後マイクは、私達をビル屋上に案内し市の建屋のエレベータに取り付けられた、その2つ目のブレーキシステムを見せてくれた。 1854年、日米間に和親条約が結ばれた後、日本は欧米から積極的に学んだ。国力は瞬く間に増大し、あっという間に先進国の仲間入りをした。 おそらく、そのスピードが早すぎたのだろう、第二次世界大戦に突入した。戦後、日本はその学習曲線を一から再出発することになる。 しかし、日本の学習意欲はすさまじく、米国に次いで国内総生産第2位の地位を得る。 今も2位を堅持するものの、1980年代終わりのバブル崩壊から、その成長はスローダウンしている。 大日本帝国軍部が増長し、国を戦争へと間違った方向に導き始めたのは1930年ごろ、江戸幕府崩壊のおよそ60年後のことであった。 第二次大戦終戦は1945年だったが、今、それからまた60年経っている。ゴッホの“ひまわり”や、加州モントレーのぺブルビーチゴルフ場、 ニューヨークのロックフェラー・センターといった不動産を買いあさるなど、1980年代の日本は少し調子に乗りすぎたのかも知れない。 日本には ASME 17.1 に該当するような規格があるだろうか。私は、エレベータやエスカレータに関する基準を記した建築基準法施行令、 第五章の四、第二節を見つけた。その内容を MSワードにコピーすると9ページの文書になった。 ASME が1921年に出版した 25ページの冊子と同じようなものかも知れない。しかし、ASME 17.1 は今や 500ページの文書になり、 A17委員会が90年間に亘って安全のための要求事項を盛り込んできた努力の結晶である。その間、日本は何をしていたかと疑問に思ってしまった。 今私達は、真摯な態度をもって海外の友人達に学ぶ時がまた来ているのかも知しれない。 私達の会合と見学は2時間ほどで終わった。私達は“ミスター・エレベータ”に多くを学び、貴重な経験をさせていただいた。 これは、日本の社会にとっても重要な学習だったのかも知れない。日本のエレベータやエスカレータをより安全にするため、 今度は私達が変革を起こす番だ。 マイク・ドロスクさん、そしてアルビン・ライトさんに改めて御礼を申し上げる。 ビルを後にする前、その前での3人の記念撮影をアルビンは気持ちよく引き受けてくれた。 午後は、セント・ヨセフ医療センターへの訪問から始まった。同病院はビルをたくさん所有しており、2003年の事故は、 ジョージ・W・ストレークビルの4階で起こった。14号エレベータだった。 マイクの指示通り、私達はまず警備室に向かい、そのエレベータが見たいということ、そして写真撮影の許可を願い出た。 組織の階層を1段ずつ上がり、各ステップで、我々は誰、目的は何、そして何をしたいか説明を続け、 そしてついに、マーケティングおよびコミュニティサービス部門副社長、フリッツ・グースリーさんが親切にも許可を下さった。 私達が会話をした病院スタッフは、私達の訪問に驚いたに違いない。 2003年の14号エレベータはオーティス製、保守はコーネという会社が請け負っていた。 今では違う会社の物に交換され、保守会社も違っている。保守作業の際の配線違いが事故の直接原因なのだからこれは無理もない。 私達はエレベータを見つめながら、6年前の事故に思いを馳せた。全く、病院の中でそんな恐ろしいことが起こるなんて。 引きちぎられたヒトシさんの頭の一部とかごに閉じ込められた女性を救い出すまで、救助隊は1時間もかかったのだ。 私達は写真を撮り、しずんだ声で付き添いの人に、気が済んだ、帰りますと告げた。 2009年8月29日、2日目は夜明け前から始まった。1日早く日本に帰らなければならなかった土屋さんを、ジョージ・W・ブッシュ空港まで送った。 残った2人は、500キロ以上離れたダラスを目指して一路北に向かった。ニカイドウさんの家に到着すると、ヒトシさんの父親、ヒサシさん、 継母のリンさんに迎えられた。悲劇が起こったときにニカイドウ家の手助けをしたコンサルタント技師も後から加わった。 周りは静かな住宅街で、一時は破壊された家族を6年の歳月が少しは癒したかのようである。 私達は居間に座り、静かに会話を切り出した。 突然の事故の知らせ、悲嘆、そして訴訟を起こすまで、ニカイドウ家の人たちの心を何が去来したかを知った。 ヒトシさんはこう言った 「病院が後から電話してきて、ヒトシの血中アルコール濃度をあれこれ言い出すまで、訴訟するつもりなんかなかったんですよ」 声は穏やかだったが、ことを思い出して多少は心が乱れていたようだ。毒物検査に供された体組織のDNA検査を要求するため、 遺族は訴訟を起こすしかなかった。ただし、被告の行動には全く関係なかったため、この検査請求は後に取り下げられた。 「我が子の名誉を回復するため、できることはやらなきゃいけなかったんだ」とヒトシさん。 さらにリンさんが続けた 「あの土曜日の朝、ヒトシの体にアルコールがあったわけがないわ。」 「私が中に入ってエレベータを検査できるよう、リンは新聞社に駆け込んだのさ」 ニカイドウ家と懇意にしていたコンサルタント技師が言った 「私が14号エレベータ制御器の配線ミスを見つけたんだ。」 彼の発見により、コーネを相手取った訴訟が和解に至る。 ヒサシさんとリンさんの話を伺い、私達はヒトシさんの人となりを知った。 彼は家族、仕事仲間、医療の仕事を目指す若い人たちへの愛に溢れたすばらしい人だった。 彼はまた、教会のボランティア行事にも良く参加し、医療施設団に入りたいと考えていた。 卒業は事故の3ヶ月前、テキサス大学医学部から金頭の杖を贈られていた。 彼の死は、家族にとってだけではなく、社会の大きな損失であった。
訳者注:“金頭の杖”とは、1827年ウィリアム・マクマイケルによる同名の小説で、医者としての技術に卓越するだけでなく、
人格的に尊敬される医者から次の者へ代々送られるとされた。これにちなみ、医学校では成績優秀なばかりではなく、
人間性に特に優れた医学生に送られる伝統が生まれた。
事故は起こる。しかしその時、肩をすくめるだけではいけない。 エレベータのような機械でも、誤動作することがあるのを大勢の人が知ることとなった。過去の失敗について知ることが第1のステップである。 そして私達は、再発を防ぐための解決である次のステップを取らなければならない。 つまり、過去の事故を知り、同じ過ちを繰り返さないようガンバルだけでは不十分なのだ。 人間は完全ではなく、私達は間違いをやらかす。 私達は持てる脳細胞を捻って、その事故を防ぐためのアイデアを出し、同じ過ちをやり得なくなるようにしなければならない。 今回の出張で、規格や基準でアメリカが実現してきた進歩を見せ付けられた。 日本には学ぶことが多くあり、それはエレベータやエスカレータに関することだけではないと思う。 私達が今回お会いした人たちは皆、同じことを思っている。同じ失敗がくり返されるのを見たくない、と。
【飯野謙次】
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