志賀原発2号機運転差し止め判決
1950年代にイギリス、アメリカと相次いで商用化された原子力発電所の、
日本での商用運転は1966年の東海発電所からである。
日本は海外にその技術を学び続け、国内でも盛んに研究開発がなされ、
原子力発電設備容量では、アメリカ、フランスに次いで世界第3位である。
原子力発電で主流の軽水炉は、沸騰水型(BWR)と加圧水型(PWR)に分けられる。
1950年代に開発されたその技術を、より安全な構造に高めた改良型にも沸騰水型と加圧水型がある。
改良型沸騰水型軽水炉(ABWR: Advanced Boiling Water Reactor)は、
世界に先駆け、1996年の柏崎・刈羽6号機の運転開始を皮切りに、柏崎・刈羽7号機(1997年)、
浜岡5号機(2005年)、志賀2号機(2006年)と運転が開始された。
このABWRは、世界各地で建設計画が進められている。
しかし、志賀2号機は運転開始 3月15日のわずか9日後 3月24日、
金沢地裁より運転差し止めの判決を受ける。
北陸電力株式会社は控訴を行い、実際にはその運転はこの判決を理由に止められることはなかった。
この事件に関する一連の経過は、自然界の力を人間が予測することの不完全さに起因している。
どんな規模の地震がいつどこで起こるか、私達の現在の科学技術を持って正確に予測することはできない。
しかし、予測できないからと言って、完璧なる安全側に社会を構築するなら、人間はその活動を辞めるしかない。
活動をつづける以上、どこかで線を引いて、ここまでは安全だと誰かが決めなければならない。
誰もが安全を願うことには変わりない。しかし、文明という便利なものを手に入れた以上、
私達は願うだけではなく、それをより確実にするために技術を発展させなければならない。
本記事では、第一審判決に前後して世の中で何が起こっていたか解説する。
2009年3月18日、名古屋高裁金沢支部は控訴審判決で運転差止請求を棄却、住民側原告は 3月31日、最高裁に上告した。
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