特定非営利活動法人失敗学会 |
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昭和ノスタルジー二本立て第14回失敗学講演の旅の後、講演が全くなかったわけでもないが、 以前に訪れたところが多かったのと、旅心がむくむくしなかったために、久しぶりにお目見えのおまけ紀行文である。 『柴又』と聞くと、私の年代以上の人はほぼ反射的に『寅さん』を連想する。『わたくし、生まれも育ち葛飾柴又・・・』 に始まり、『・・・姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します』で終わるおなじみの口上も、 大抵の人が空で言える。これも、繰り返しと右脳活性化学習の効果だろう。 京成金町線柴又駅改札を出ると、まず寅さんの銅像が目を惹く。台座には、『男はつらいよ』シリーズ監督の山田洋次さんの言葉が刻まれている。 ここに引用しよう: 寅さんは損ばかりしながら生きている 江戸っ子とはそういうものだと 別に後悔もしていない (中略) ―ごめんよさくら いつかはきっと偉い 兄貴になるからな― 車寅次郎はそう心に念じつつ 故郷柴又の町をふり返るのである ♪どおせおいらはヤクザな兄貴。わかっちゃいるんだ妹よ♪ と聞こえてきそうな文面だ。 『男はつらいよ』シリーズは、1969年8月27日の第1作に始まり、 1996年8月4日に主演の渥美清さんが亡くなる前年の1995年に収録を終えた第48回が最終回となった。 駅から400mあまりだろうか、まずは寅さん記念館を目指し、矢印に従って細い住宅街を歩いていくとやがて、こちら寅さん記念館、 あちら矢切の渡しの分岐点に出る。 「え、矢切の渡しってこんなところに実在するんだ」 見てみたいものの、肝心の寅さん記念館が閉館しては、日を改めてまた来なくてはいけない。 そこは寅さん記念館への道をたどった。 日曜日ということもあって、夕方でも大勢の人が訪れていた。 最初は、パネルにポスターそして撮影スタジオを再現したものと、 今にもおいちゃんとおばちゃんが「なんにしましょ」と出てきそうな雰囲気だ。 奥には精巧に縮小・製作された町並が、昭和の柴又を再現している。江戸東京博物館のジオラマにはとてもかなわないが、 人情味あふれる昭和の町が懐かしい。 もちろん、展示されているのは昇華された町のイメージだけで、当時の社会、医療、技術の問題など、窺いはかることなどできるわけもない。 展示は命なく生きていないから良いのであって、その当時を懐かしんで、じゃあ、昭和の時代に戻りますかと訪ねてみたら、 誰もが拒否をするだろう。世の中は着実に進歩している。 さらに進むと、明治32年に開業したという帝釈人車(じんしゃ)軌道の模型があった。 6人乗りの小さな車両をなんと人力で押して軌道の上を走らせ、 当時の金町駅から帝釈天への参拝客を移動させたという。 距離が1.4kmとあり、牛乳1本三銭の時代に片道五銭したというから、必要に駆られてというより、 ものめずらしくて乗ったのだろう。歩いても15分か20分でついてしまう距離だ。 こんなものがあったんだと驚いてネットで調べてみると、1891年の藤枝焼津間軌道を皮切りに、 1959年に最後の島田軌道が廃止されるまで、29の路線があったらしい。この帝釈人車軌道より短く 1km に満たないものから、 長いものでは 30km もあったとのことだ。 冷静に考えてみると、帝釈人車軌道は1912年(明治45年)に京成電気軌道の手に渡り、 その翌年には延長、電気化されたので、寅さんの昭和の時代にはもうなかったことになる。 それでも、寅さん→帝釈天→帝釈人車軌道とこじつけてその模型を展示し、 歴史を後世に伝える努力には脱帽だ。 展示されていた人車は 20分の1 程度の大きさだろうか。 車両を押す車丁(しゃてい)さんの足がバタバタと動いているように見えて愉快だ。 さらにネットで調べると、宮城県松山町商工会が復元した松山人車軌道を9月終わりごろに走らせているらしい。 これは機会があったら是非乗車してみたいと思った。 ふと見ると、軌道の横に池があって鴨が浮かんでいる。そのうちの1匹が優雅に円弧を描いて回っている。 あれっ?これ見たことがある!と思ったら、 横浜開港博に出展したゲームと失敗学分科会の『Houseful of Danger』 1階のガラス戸の危険で使用したメカニズムだ。床板(池面)が透けて円軌道が見えているところまでそっくり。 同分科会の斉藤さんと本村さんとは苦労の末出来上がった展示だ。いっしょに見たかったが、ここは写真でその雰囲気を楽しんでいただこう。 人生何事も我慢が肝要。 シリーズのポスターを見ていると、「そういえば、今回のマドンナは誰」といつも話題になっていたことを思い出した。 吉永小百合さんは今でも映画に活躍されている。改めて女性の持久力の強さに感心する。 ひとしきり寅さんで懐古心をくすぐられて外に出ると、まだ日は残っていた。 これは矢切の渡しを見なければと江戸川の方に足を進める。 堤防の上に立ってみると、左に柴又の町並、右に江戸川の優雅な流れがある。ここは海抜0メートル地帯。 江戸川は、千葉県が北西に触手のように伸ばしている野田市の突端、関宿(せきやど)のわずか北、 茨城県五霞町(ごかまち)のところで利根川から分かれ、そこから三郷市(みさとし)南端まで埼玉・千葉の県境をなす。 その南は東京都と千葉県の境界となる。利根川から分かれているのだから、その上流は今話題の八ッ場(やんば)ダムにつながっている。 民主党が政権を取って八ッ場ダム建設が中止になる雲行きだ。計画から50年以上が経過し、地域住民が右往左往、 計画工事費もどんどん膨れ上がったものの、治水に必要ではないのかと心配になる。 カトリーナがニューオリンズの町を破壊したのは2005年のことである。 「今年は大丈夫だった」が何年も続くとそれがいつの間にか「もう来ない」に変わってしまう。 人気もまばらな夕暮れ時の川原をしばらく歩くと、あれかなと思える小屋らしきものがあり、 近づくと紛れもない矢切の渡しといたずら書きのような杭が立っていた。 「つれて逃げてよ…」 「ついておいでよ…」 夕ぐれの 雨が降る 矢切の渡し 親のこころに そむいてまでも 恋に生きたい 二人です (後略) 最初はちあきなおみのレコードB面に収録された(1976年)が、1983年に細川たかしがカバーして大ヒット、 レコード大賞を獲得した。 しかし、1983年も駆け落ちはあったろうに、渡し舟で身を寄せ合いながら、というのは実感が湧かない。 当時20代前半だった筆者も人生経験が少なく、この歌を聞いて心打たれてなかったと思う。 細川たかしは大きな声を出すなあと思った程度だろう。今、Youtube で見るとしかし、ちあきなおみに分があるようだ。 そういえば当時、学友仲間で誰も予想しなかった1980年レコード大賞『雨の慕情』を、筆者と池山君の二人のみが言い当てたことがある。 しかし同年新人賞は松田聖子に決まっているの一点張りだった筆者に対し、池山君は田原俊彦と松田聖子の二点張りで、 見事持っていかれてしまった。以来、レコード大賞に対する興味を失った。 矢切の渡しを後に、再び柴又の町に降りていった。 割烹川甚のまえには、観光バスが並んで人を吐き出していた。 そこから寅さんが産湯に浸かったという帝釈天はすぐだ。 映画中の口上は『・・帝釈天で産湯をツカイ・・』とあり、 そのまま読むと母親が帝釈天で出産、もしくは生まれた血だらけの寅さんを誰かが抱えて帝釈天に走ったことになる。 これは考えにくい。 松竹の公式サイトで登場人物の相関図を見ると、 寅さんは父平造と芸者菊の間に生まれた妾腹の子。 あり得るのは、当時の信心深い芸者仲間が菊の出産に際して、 御神水と呼ばれる帝釈天の湧き水を汲んできてそれを暖めて産湯に使ったということだが、 ここは素直に、柴又で生まれたことを粋に表現しただけと考えたい。 今では湧き水を産湯に使うなど、白衣を着たお医者様や看護師たちが目くじら立てて、 「とんでもありません!」 と言うことだろう。 境内の松の枝ぶりはすばらしかった。 こうして寅さんにちなんだお店が並ぶ参道を、逆に歩いて柴又訪問を終了した。 その日は御徒町に出て、もつ焼き大統領で相席となった若者と話して夜まで楽しかった。翌月曜朝が多少つらかったが、 『大統領』を教えてくれた行きつけのバーのヤマちゃんによると、どうも割安の焼酎を使っているかららしい。 東京は下町が面白い。
[ 飯野謙次 ]
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