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失敗学会春合宿2011
大国主と島根の産業体感ツアー(Part2b)

日時:2011年 5月21日(土)
参加者:浅井香葉,三田 薫,北村兼一,岩崎雅昭,岡田敏明,平 真寿美,佐々正光,
      佐々木英三,黒澤愼輔,横井祐一,石井健児,福本喜枝

石見銀山コース

   09:30 バス乗車
   11:00 石見銀山公園着 早めの昼食
   12:00 銀山エリアガイドツアー開始、龍源寺間歩他
   15:00 ガイドツアー終了
   15:05 群言堂訪問
   17:00 バス乗車、出発
   18:30 ホテル着

斐伊川  合宿2日目、石見銀山チームはマイクロバスに乗り込んだ。
 三刀屋木次(みとやきつぎ)インターチェンジから松江自動車道に入り、 山陽自動車道との合流地点の宍道ジャンクションでバスは出雲、浜田方面に進む。 道途中に流れる斐伊川(ひいかわ)は河川延長153 km、流域面積2,070平方kmととても大きい。 あいにくの曇り空。その雲の隙間からヤマタノオロチが降りてきそうな雰囲気だ。

 1時間半ほどで、石見銀山公園の駐車場に到着した。ところで石見銀山は、 観光バスの乗降や待機スペースが限られていて、この場所も事前に予約が必要だった。 自家用車の場合にも規制がある。私は最初、このシステムは少し面倒くさいと感じたけれど、 この場に到着してその考えを改めた。これだけの自然があり、 人々が通常の生活を送っているその中に、規制もなく車が横行するのはきっと弊害の方が多いに違いない。 世界遺産登録された石見銀山を、ただ観光地化するのではなく、 その財産を守っていこうとする地域の人々の姿勢が感じられた。

 さて、まずはCafe住留(じゅうる)に向かい、腹ごしらえをしてから、 石見銀山コースを回る、という予定だったが、重厚でしっとりした日本家屋が並ぶ大森地区の町並みをみて、 俄然テンションがあがり、ちょっとこちらも見てみたいとなった。 腹ごしらえは30分もあればいいからと、わずかな時間を縫って大森地区を駆け足でめぐった。

この写真は会員のみ

 あちらもこちらも見たいが時間がない。大森地区の町並みに後ろ髪を引かれつつ、一同はCafe住留に集合した。
 曇りのち雨の天気予報はどこへやら、とろとろ牛すじハヤシライスを食べているうちに、 外はすっかり晴れ渡り、気温もぐんぐん上昇し、暑くなってきた。 私は自他共に認める晴れオンナなので、これは当然予想していた天気なのである。 が、失敗学会スタッフとなってからは万全を期すようになり、ちゃんと雨カッパは持っているのである。 えらいぞ、私。
 なんてことを考えながら店の外に出ると、石見銀山ガイドの会の小田康子さんがやってきた。 とてもチャーミングな女性で嬉しくなる。 小田さんのいでたち(写真右)は石見銀山観光の際の模範的な服装だ。 私は七分丈パンツにしてしまったので、足首をマムシに襲われたらアウトである。 なので、皆の周りから離れないように心がけた。

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 「さあ、参りましょう」私たちは小田さんの後に続いた。
 なんとものんきな田舎道、空気がおいしくてとても気持ちがいい。 ここのどこに世界遺産があるのだろうか? どこかでなにかドーンと出てくるのかしら?と考えていると
「石見銀山はどこが世界遺産なのかわからないとおっしゃる方が多いんです」
と小田さん。予備知識やガイドなしではその価値がわかりにくいのだそうだ。

 そこで小田さんは、石見銀山について簡単なあらましを説明してくださった。
 私の頭で理解したことには、戦国時代に大内、尼子、 小笠原の三つ巴で石見銀山を我が物にせんと争奪戦を繰り広げ、 最終的に毛利が手中に収めた。そして、時は流れ、徳川家康が天下を取った後には、 石見銀山は天領となり、その時代に一番の繁栄を見た。 その頃の遺跡が今も自然と共存して残っている、とのことである。

 まずは下河原吹屋跡から見学を開始した。

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 1533年(天文2年)、神谷寿禎(かみやじゅてい)は朝鮮半島から技術者を招き、 鉱石から銀を吹き分ける「灰吹法」を導入した。この技法によって銀の精錬技術は飛躍的な発展を遂げる。 さらに、この当時の灰吹法は鉄鍋と動物の骨の灰を使っていたが、 江戸時代初めには地面を掘って大型炉を築き、多く入手できる松葉灰を利用し、 銀の大量生産につながったという。これはいわゆる産業革命があったと言って差し支えないのではないか。

この写真は会員のみ  次に、豊栄(とよさか)神社へと向かう。1867年(慶応3年)までは洞春山・長安寺という曹洞宗の寺だった。 ここには毛利元就の木像が安置されていたそうだ。しかし、毛利氏は関ヶ原の戦いで敗れたため、 それ以降、当然ここは放置され、荒れ放題となった。とったりとられたりの後は容赦ないものである。
 しかし、江戸時代末期になると、長州軍が石見に進軍して幕府を破り、その時、 この毛利元就の木像が発見されたのだ。
 長州の人たちはお金を出し合い、荒れ放題だったこの寺を豊栄神社として整備したそうだ。 境内の石垣に長州軍の隊士172名の名前が刻まれている。 この名前が全て実在する人物なのかを調べた人がいるそうで、世の中にはいろんな研究をする人がいるものだな、 と感心した。

 「最大ここにはどのくらい人がいたのかなあ〜?」 と歩きながら三田さん。
 「江戸時代のピーク時には20万人が暮らしていたといわれています」
ええ!20万人!私が住んでいる東京都台東区の今の人口が16万人くらいだ。 すごいなあ。しかも、銀産業で地域は潤っているのだ。宝の山なのだ。 ところで労働者とその家族も潤っていたのかな?中間搾取する悪代官(時代小説の読みすぎ)がいたりしたのかな、 などと勝手な想像をしながら歩いて行く。 三田さんは、この後ずっと「20万人か〜すごいね、20万人!」と言い続けていた。 そのおかげで私はこの「20万人」という数字を一生忘れないだろうと思った。

 一行はあれやこれやと小田さんに質問しながら、清水谷精錬所跡(写真左)に到着した。
 1889年(明治22年)、銀産業のさらなる技術革新をと、 当時のお金で20万円(白米10キロ40銭の時代)をかけて建設された。 ここには銀を精錬する近代的な設備があったが、銀鉱石の質が悪く採算に合わないため、 1年半で操業停止したとのこと。元がとれなかったのは悔しかっただろうな。

 続いて清水寺(せいすいじ、写真右)を見学した。
 清水寺は石見銀山開発に関わった領主や代官に信仰された真言宗のお寺で、 元々は仙ノ山の山頂538m、石銀地区(いしがねちく)にあり、 銀を掘る場所が下降するにしたがって寺も一緒に移動し、1899年(明治22年)、 この場所に落ち着いた。寺も一緒に動いてくれないと、すぐにお参りにいけないものね。
 ここには釜屋間歩を開発した安原伝兵衛さんが徳川家康から贈られた道服、 「辻ヶ花染丁字文胴服(つじがはなぞめちょうじもんどうぶく)」がとても綺麗な状態で保存されていたとのことで、 国の重要文化財となっている。

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 安原伝兵衛さんについてもう少し詳しい話(夢の中で銀の釜がどうのとか)を聞き、 それから「間歩(まぶ)」とは何かを説明いただいた。 江戸時代、採掘操業の場所を「山」、坑道を「間歩」と呼んだ。 石見銀山には空気抜きなどを合わせて500を越える間歩が確認されているそうだ。

 新切間部(しんきりまぶ)。碑が立っていなかったら見過ごしてしまいそうだ。 ひと一人がやっと入れるくらいの小さな穴がある。危険なので中には入れない。

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福神山間部(ふくじんやままぶ)。やはり立ち入り禁止。こちらもうっかり見過ごしそうだ。

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こんな鉱山道具を使って掘り進めたと、説明板にあった。

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この写真は会員のみ  このように狭いところを、当時の人たちはどのように掘り進んでいったのか? 小田さんがわかりやすく解説してくださった。解説を聞き、私は若干閉所恐怖症の気があるので、 もしこの時代、ここで男に生まれていたら、へっぽこ呼ばわりされて肩身の狭い思いをしていたに違いないと思った。
 わずかな明かり(サザエの貝殻の中に油をいれ芯をつけて灯していた)を頼りに少しづつ掘り進め、水をくみ出し、 空気を送り、運び出す。子供は10歳くらいからこの手伝いをしていたそうだ。 危険な作業に加え環境も悪いので病気になる人が多く、だから30歳で長寿のお祝いをしたのもうなづける。
 大変な作業であるが、さらにすごいなと思った話がある。鉱山を掘った後、 そのまま放置するのではなく、必要なものをとったら残りは元に戻していたとのこと。 環境に配慮とはまさにこのことである。

 そんな話を聞いた後、龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)の入り口に到着した。 ここは唯一公開されている間歩で、江戸時代の中頃に開発された代官所直営の坑 道だ。

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この写真は会員のみ  長さは約600mがあるが、見学できるのは入り口から157mの地点までと聞いて、 ちょっとほっとした。
 中に入ると冷たくヒンヤリしている。道先は薄暗くて狭い。ゆっくり歩みを進めていくうち、 目が暗さに慣れてきた。辺りをよく見てみるとノミの跡がいたるところに残っている。 さざえの貝殻で作った灯りを置いていた跡もある。
 小田さんが「こちらをご覧ください」と言いながら、懐中電灯で照らしてくれた先には、 細く長く掘り進められた横穴があった。横穴のほか、垂直に100mも掘られた竪坑(たてあな)があり、 溜まった水を永久坑道に排水したと言われる。

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 閉所はやはり息苦しく感じ、どきどきしてきたところで新坑道に出た。 新坑道は昭和58年に完成したもので、幅も広いし、 手すりもあるし、明るいしで一息ついた。ここに石見銀山絵巻の一部を伝照板に 仕立てたものがあり、これを先に見てから歩いたほうが理解が深まると思った。

 さて、龍源寺間歩を後にし、山神さんと呼ばれて親しまれている佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)の前を通り、 ガイド終了場所である郡言堂へと向かう。
 二時間以上歩いているのに、小田さんも一行も元気だ。私たちは小田さんに最初から最後まで 質問をしまくっていたが、どの質問にも丁寧に答えていただいた。ありがとうございました。 小田さんは60過ぎてからガイドの仕事を始めたそうで、 「60過ぎてからパァッと世界が広がったの」と仰っていたのが印象的だった。 すばらしい。私も何歳になっても新しいことに挑戦しよう。
 名残り惜しいけれど、ガイドツアー終了。この後私たちは、岡田先生お薦めの郡言堂、 他郷阿部家(写真左。台所には大きな竈がある) にお邪魔し、松葉登美さん(写真右)のお話を伺った。

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 今回は超特急の石見銀山ツアーだったが、「石見銀山」といえば「ネズミ捕り」しか思い浮かばなかった 私(やはり時代小説読みすぎ)には、ありがたいツアーだった。また、郡言堂の上野桜木店と私は町内会が一緒なので、 お店の人に「行ってきたよ」と伝える楽しみもできた。

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 ※上記レポート内の写真は全て岡田敏明さんが撮影されたものです。使用の快諾をありがとうございます。
【福本喜枝】


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