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30年後の再会

 サンノゼ郊外へのドライブは気分が爽快だ。サンフランシスコ湾界隈を訪れたことのある人であれば、金色の波打つ丘のところどころにちりばめられた深緑の木々を覚えているだろう。

 私がGE原子力で働き始めたのはその子会社、GEサービス社に入ったときだ。そのころGEにはエジソンプログラムがあり、毎年全米各地から若い技術者20名を集め、1984年には日本からも一人加えて社内の様々な仕事を6ヶ月ずつ体験させるものだった。私が体験した6ヶ月勤務の一つが発電所の保守に関わる仕事だった。定期保守だけではなく、必要に応じて修理も行う。そして、幸運なことに水面下15メートルの修理に必要な遠隔操作工具を設計する仕事に当った。
 3ヶ月の設計、テスト、準備期間の後、現場にたどり着いたときには、祖国日本に仕事で帰るというので私はわくわくしていた。結構古い発電所で、そこここが痛んでいた。到着後、初日はみんなで作業現場を見るため格納容器に入った。原子炉容器蓋、蒸気乾燥機、気水分離機は既に外され、操作員は作業位置についていた。電力会社の技術者には、GEからの現場派遣技師に日本人が混じっていたのは驚きだったかも知れない。気軽に挨拶を交わした後、それぞれの持ち場に戻って待つことになった。
 待ち時間が長すぎると思ったころ、さっきの電力会社技師が痺れを切らして私のところにやってきた。
「どうして何も始まらないのですか」と、詰問された。
 なにが起こっているのか、見当もつかない私はその問いをそのまま作業台に投げるしかなかった。そして、ケイはそれまでに知り合いになった操作員の一人だった。
「ケイ、お客さんが何で待っているのか知りたいって。何やってるの?」と私は尋ねた。
「仕事を始められるよう、書類が承認されるのを待ってるんだよ」と、ちょっとケイも戸惑ったように答えた。
「それは待たないといけないことなの?」作業経験の少ない私は尋ねた。
「そうさ、だってお客さんがそう言ったんだ」
「誰がそう言ったの?」
「お前だよ!」
ケイは遠慮なく、先ほどの電力会社技師を指差していた。私はにやりと笑いそうになるのを懸命にこらえていた。その技師は何も言わずに立ち去って行った。

 私にとって、ケイは腕のいい操作員というだけではない(彼は、なくなった工具や部品を炉底から回収するという離れ技の持ち主だった。そしてそれは水面下30メートルの作業だった)。正しいことを声に出すことはちっともはばからない人だった。東電のひび割れ隠蔽事件の内部告発者がケイだったと知ったときは驚いたが、その人を知っているということと、いかにもケイらしいということでちょっと嬉しい驚きだった。彼は正しいと思ったことを実行する人なのだ。今回会って知ったことに、初めて蒸気乾燥機にひび割れを見つけたときは、彼は言われるがままにそれを撮影したビデオ部分を消したそうだ。しかしどうにも気持ちが悪く、アメリカに戻ってから仕事仲間の訓練センターBWR担当教官に尋ねて見ると、アメリカでそれをやったら刑事罰だよと言われ、それ以来データの改ざんや隠蔽はいっさい断ってきたという。

 ダッシュボードのカーナビに任せ、教えられた所番地にたどり着くのは簡単だった。借りていた車から降り、隣同士2軒の前庭を歩いていくと、立ち上がってこちらに歩いてくる人がいた。
「ケンジか?」
「うん、僕だよ、ケイ!」
 同じ会社に働き、同じチームで日本で仕事をしてからもう30年にもなろうとしていた。彼の波打った長髪は短く刈り込んだ白髪混じりになり、鼻髭はなくなっていた。

 ケイが初めて仕事に就いたのは、1973年にヴァレシトス(Vallecitos)でのことだった。同所はアメリカ機械工学会から、国際的機械工学歴史遺産として認定されており、記念盾には、以下のように刻まれている
『本施設は、初めて公共の電力網に大量の電力を送り出した商用原子力発電所である』
 私たちは共通の仕事仲間の近況、GEを去ってからの人生、そして東電が蒸気乾燥機のひび割れ隠蔽をケイに強要したことを、原子力保安院に内部告発してから彼の周りで起こったさまざまなできごとについて話し合った。ケイはその告発の手紙を2000年6月26日に書いたのだった。
 やがて、帰米二世(アメリカに生まれ、日本で育った後、アメリカに帰った二世)のお母様が会話に加わり、イチゴ、スイカ、クリームチーズとクラッカーがふるまわれて楽しいひと時を過ごさせていただいた。彼女はロイさんを良く御存知だった。ロイさんとは、私が1984年に初めてアメリカに渡ったときに住まいとした、日本人街のアパートの大家さんである。そしてケイは、毎晩 Gombei で夕食を食べる日本人街の若い日本人技師として私を覚えていてくれたのである。

 あれから長い年月が経ち、私たちはお互いに年輪を重ねていた。ケイは、今は引退しているけど、日本でならもう一度原子力発電のために一肌脱いでも良いと言った。日本の原子力工業界は、ケイのように現場経験が豊富で、しかも日本を愛する心が強い人を必要としている。

 福島では、多くの人が原子力事故により人生を翻弄されている。ちょうどケイの御母堂が、父親が人種差別に耐えられずに家族を日本に連れ帰ったのも不条理なできごとだったように。ただし、幸運にも日本に帰ったのは戦争が始まる前だったのでその家族は、米国の戦争の歴史における大きな汚点、日本人収容所に入れられなかったのは幸いだった。そのケイの祖父は、一部アメリカ人にひどい目に会わされたにも関わらず、パラシュートで降りてきたアメリカ人パイロットを日本の暴徒化した農作業者達から救い出したのだった。私たちは、時に周りの“気”に、正しいことと間違ったことを見分ける心を誤ってしまう。それは周りの人々だったり、マスコミの扇動だったりする。

 ケイのお母様との会話は楽しかった。楽しみにしている読書クラブに出かける前に尋ねられたのは、
「あんた、戦争の時はどこにいたんかね」
私は、「まだ、母と父が出会うのを待っていました」と、答えるしかなかった。

 私たちは人生において、自分の優先順位を見定める。それが正義だったり、家族だったり、時にはお金や権力だったりする。人生の荒波にもまれながら、私たちの優先順位も変わる。何をするにもあるいは目指すにしても、それは幸福でありたいとの願いからである。そしてそれは大変に実現が難しいことがあるものなのだ。
飯野謙次
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