失敗事例

事例名称 エドモンド・フィツジェラルド号の嵐による難破
代表図
事例発生日付 1975年11月10日
事例発生地 米国ミシガン州とカナダのオンタリオ州の間のスペリオル湖(五大湖の1つ)
事例発生場所 米国北部の五大湖の1つであるスペリオル湖、ホワイトフィッシュ・ポイントから約17マイルの航路
事例概要 1975年11月9日、エドモンド・フィツジェラルド号はウィスコンシン州スペリオルを出発し、ミシガン州デトロイトへ向かう途中、強風、雪、高波の中、行方不明になった。11月14日に湖底に2つに割れた船体が発見された。
事象 1975年11月9日、強風警報が出ていたにも関わらず、エドモンド・フィツジェラルド号はウィスコンシン州スペリオルを出発し、ミシガン州デトロイトへ向かった。安全基準を超える荷が詰まれており、船体が通常より約1m沈んでいた。10日未明、嵐がひどくなり、船体が損傷を受け、2台のポンプで水を汲み出しながら港へ向かった。レーダーも破損し目的地の確認が困難になりながら、後に続いていたアンダーソン号と通信を続けてホワイトフィッシュ・ポイントへ向かっていたが、後17マイルほどの所で雪の中、通信が途絶え、行方がわからなくなり、11月14日に2つに割れた船体が湖底で発見された。
経過 1958年6月に初めてデトロイト川の水上に置かれたエドモンド・フィツジェラルド号は、その時代では最大の湖上の運搬船であった。1975年11月9日、エドモンド・フィツジェラルド号は26,116トンのタコナイトを積んで出港した。1969年の安全基準より約1mほど深く沈み、通常よりデッキが水面に近い状態であった。強風警報が出ていたにも関わらず、エドモンド・フィツジェラルド号はウィスコンシン州スペリオルを出発し、ミシガン州デトロイトへ向かった。10日未明、強風がさらにひどくなり、航路をスペリオル湖北岸沿いに変更し、エドモンド・フィツジェラルド号の後を続いていたアンダーソン号にもそのように告げた。波の高さは3mを超え、強風がさらにひどくなり、雪が降り始めた。約16マイル離れていたアンダーソン号から、エドモンド・フィツジェラルド号は見えなくなった。その後アンダーソン号にエドモンド・フィツジェラルド号から連絡が入り、船の上部等が損傷し、2台のポンプを使って水をくみだしていることを告げた。午後4時30分、エドモンド・フィツジェラルド号はレーダーをを失い、目的地のホワイトフィッシュ・ポイントの位置を確認できなくなった。午後6時には波が7mを超える高さになっていた。午後7時10分、アンダーソン号はエドモンド・フィツジェラルド号の約9マイル先に船があることを告げた。その後エドモンド・フィツジェラルド号との通信が途絶え、エドモンド・フィツジェラルド号は雪の中、アンダーソン号の視野から消えた。アンダーソン号は捜索にでたが、空の救命ボートのみが見つかった。11月14日、ホワイトフィッシュ・ポイントから約17マイルの湖底でエドモンド・フィツジェラルド号が発見された。船体はねじれ、2つに割れていた。
原因 直接の原因は嵐である。通常より多い荷を積んで、安全基準より約1m沈んでいたため、浅瀬で船体が湖底に接触したのではないかと言われている。また、高波が船体の前後の両端を持ち上げ、そして別の波が横から船体に体当たりし、船体が破損したのではないかという説も唱えられている。また、カーゴのハッチから水がはいりこんだという説もある。
対処 嵐がひどくなってきた際により安全であると思われた航路に変更した。船が損傷した際に、ポンプを使って水をくみだしたり、 後に続いていたアンダーソン号に助けを求めた。アンダーソン号はエドモンド・フィッツジェラルド号を探し始めた。救命ボートなどが使われていない様子から、船は約10秒程の間に沈んだのではないかといわれており、その間には救命作業はできなかった様子である。事故を事前に防ぐための対処としては、75年春に年次検査が行われていた。同年10月にカーゴのハッチに多少の支障がみられたが、すぐに修理の必要がないと判断された。
対策 生存者は無いが、状況から推測してレポートが作成された。同様の事故の再発を防ぐために、レポートを活用。
知識化 浮沈の船といわれたタイタニック号同様、自然を甘くみて警報などを無視したり、安全基準を守らないと、取り返しのつかない事故につながることがある。
背景 当時湖上最大の頑丈な船といわれ、少々の嵐や多少の過負荷には影響されないだろうという浅はかな考えが潜んでいた。強風警報などを無視していた。安全基準を無視して重量オーバーになっていた。10月の検査でカーゴのハッチに損傷があったが、すぐに修理をせずに船の使用を続けた。
後日談 エドモンド・フィッツジェラルド号の船体および船員の遺体はあげられず、今も湖底に沈んだままである。船員たちの勇気を象徴する記念碑である。
よもやま話 ゴードン・ライトフットという米国の歌手が「エドモンド・フィッツジェラルド号の難破」という歌をうたい、1976年に流行した。歌詞には、その船がアメリカのプライドであること、その時の自然状況や事故の様子などがこめられており、人々の心を打った。
当事者ヒアリング エドモンド・フィッツジェラルド号からアンダーソン号への最後の通信で、エドモンド・フィッツジェラルド号の船長A氏は"We are holding our own."
データベース登録の
動機
タイタニック号の沈没事件のように、大きくて頑丈で、何事にもたえられそうなものであっても、このような悲惨な事故を招くことがあるので、どんな時も自然を甘くみないことや安全基準の重要性を人々に理解してもらいたいため。
シナリオ
主シナリオ 誤判断、状況に対する誤判断、誤判断、誤った理解、詳細計画ミス、使用、輸送・貯蔵、不良行為、規則違反、破損、破壊・損傷、材料強度不足、破断、破損、大規模破損、沈没、身体的被害、死亡
情報源 http://www.uoguelph.ca/~dtyszler/EdFitzWeb.htm
http://www5a.biglobe.ne.jp/~tadashi0/top1001976.htm
http://www.detnews.com/history/fitz/fitz.htm
http://cimss.ssec.wisc.edu/wxwise/fitz.html
死者数 29
負傷者数 0
物的被害 エドモンド・フィッツジェラルド号、その積荷であるタコナイト
被害金額 当時の価値で約840万ドルの費用をかけてこの船が製造された。
社会への影響 タイタニック同様、不沈と思われた大型貨物船の沈没は、人々に自然の恐ろしさを再認識させた。
備考 これ以前の五大湖での自然現象が関連する沈没事故を上げると、1913年11月には18隻の船が沈み254名が死亡、1940年11月11日~13日にミシガン湖で3隻が沈没し57名死亡、1958年11月18日にはミシガン湖でカール・D・ブラッドリー号が沈没し、33名が死亡、1966年11月29日、ダニエル・J・モ-レル号が沈没し、28名が死亡。船長A氏は五大湖の航海では約44年の経験があった。
分野 機械
データ作成者 タカミハマダニ (SYDROSE LP)
中尾政之 (東京大学工学部附属総合試験所総合研究プロジェクト・連携工学プロジェクト)