失敗事例

事例名称 水雷艇友鶴の転覆
代表図
事例発生日付 1934年03月12日
事例発生地 長崎県佐世保港港外
事例発生場所 海上
機器 水雷艇友鶴は千鳥型の第3番艦であって、ロンドン軍縮条約の制限外艦艇に属し、駆逐艦の劣勢を補うため、排水量600トン以下の船体に12.7センチ砲3門、魚雷発射管4門を搭載し、速力30ノットという性能を有し、実質的には二等駆逐艦とも称すべき艦だった(図2参照)。昭和9年2月24日に舞鶴で竣工、月末に佐世保に回航し、同型艦千鳥、眞鶴の3隻をもって第21水雷隊が編成された。本隊は軽巡洋艦龍田を旗艦とする佐世保警備隊に所属した。
事例概要 昭和9年(1934年)3月12日、水雷艇友鶴は夜間教練を終え、佐世保に向け北上の途中、荒天の風波の衝撃を受け大傾斜が起きた際に、これに対抗する復元力が不足し、転覆した。殉職者は艇長以下100名であった。
友鶴は千鳥型の1隻で、重武装としたために異常に重心が高く、傾斜時の復元力が欠如し、いわゆるトップヘビーであった。艦の進路の斜め後方より追波を受け、波の周期と艦の固有振動周期が同調して大きく揺れ、復元力不足で転覆した。
トップヘビーとなった責任は、重武装を強圧した用兵者と、これを許容した造船設計者にある。友鶴の転覆を契機として、日本海軍の艦艇は全面的に、復元性能に再検討が加えられた。
事象 昭和9年(1934年)3月12日午前1時、友鶴は佐世保港の寺島水道を出港、千鳥、友鶴の順序で大立島南方海面に出動、折からの荒天を冒して旗艦龍田に対して襲撃運動を行ったが、ますます風浪が大きくなったので、午前3時25分、ついに教練終結が令せられ、龍田に続航、佐世保へ帰航中だった。艦の動揺が激しく、3時58分に至り友鶴の無線機は卓上より転落して受信不能となり、互いに発光信号で連絡しつつ航海中だった。4時12分、友鶴の灯火が消滅して消息が絶えた。
直ちに僚艦は反転し、激浪の間を探照灯で照射捜索したが手掛りなく、佐世保鎮守府各部隊の艦船、航空機は未明より付近海面を捜索中、12日午後1時に至って第21駆逐隊は転覆漂流中の友鶴を発見した(図1参照)。龍田は苦心の末、曳航に成功し、13日午前7時に佐世保へ入港せしめた。
艦内に生存者があるので、空気を送り、潜水工員は艦内に連絡し、流動食を送るなどの手段を講じたが、転覆中の艦はうっかり手を附けると不測の浸水を生じて危険であるので、檣などの突出物は水中切断を行って、13日午後8時、水船を両舷に固縛して浮力を与えつつ工廠の船渠に入渠し、排水の上、13名の生存者を救出した。この間3名の乗員は入渠前に艦内より脱出して救難隊の作業を助けた。しかし、ついに艇長 岩瀬奥市大尉以下100名の殉職者を出した。
艦というものは決して転覆するものではない。いかなる強風怒涛の中にあっても必ず復元する。これが海軍軍人の信念であった。そうであるから、軍縮条約廃棄のいわゆる1936年の危機を前にして、激しい訓練が行われていたのである。正に激烈なショックだった。日本海軍の新鋭艦はその性能が世界無比と信じられていた。水雷艇友鶴もまたその例にもれない。日本の造船技術は不能を可能とし、条約の制限下に600トン以下(すなわち制限外艦艇)の艦に、駆逐艦としての性能を見事に与え得たと信じられていたのである。
直ちに、野村吉三郎大将を委員長とする査問会が組織され、調査の結果、原因を究明し、4月2日、委員長より海軍大臣に宛てて報告書が提出された。次いで、4月5日、海軍省は主要原因が復元力の不足であり、その防止のために計画上の改善を要することを公表した。
経過 明らかに友鶴の転覆は復元性能の不足、換言すれば設計の不備に基づくものであった。何故不備な設計が行われたか。昭和6年、ロンドン軍縮条約の制限下に補助艦艇補充計画が立案され、軍令部は新艦に具備すべき要求事項を提示した。この内に駆逐艦として、1,400トン型と1,000トン型の2種があった。駆逐艦の全体保有量が制限されており、かつ緊縮予算下において、単艦に付与すべき兵装などは明らかに過大だった。1,400トン型は結局、初春型として実現したが、1,000トン型は駆逐艦の合計保有トン数の枠に含めるのは不得策と認められて中止となり、代わりに更に排水量を少なくして条約の制限外艦艇として建造し、実質的には二等駆逐艦に匹敵させようとしたのが千鳥型で、近海の決戦場において駆逐艦の代用として使用できる艦を目指すものであった。
したがって、千鳥型水雷艇は名称が同じであっても、日露戦争当時の水雷艇とはまったく相異する。排水量は大正時代の二等駆逐艦と匹敵し、兵装は新式であるだけにより強力である。すなわち、軍令部の要求は、基準排水量600トン、速力30ノット、14ノットにて航続距離3,000マイル、12.7センチ砲3門、53センチ魚雷発射管4門だった。これに対し、極力重量を減ずるため溶接と軽合金を広く使用し、機関及び兵装重量もあらゆる努力を払って切りつめたが、兵装にあっては主砲を大型駆逐艦同様に砲塔型とし、方位盤射撃装置を設け、実際は重いものとなった。凌波性を考慮して乾舷を大きくし、居住性も従来の駆逐艦以上に良くし、しかも設計が進むにしたがって艦政本部各部の兵装計画者は複雑精巧な機構の採用を要求し、すべてこれらは重心を高くする傾向にあった。かくして基準排水量わずか527トン(公試状態615トン)でまとまったのである。
本型の第一艦千鳥は昭和6年10月、舞鶴工作部(後に工廠となる)で起工し、8年4月に進水した。軍艦は建造中に重量の実測を行う。起工より竣工まで鋼材、艤装品、兵器、機関などすべて搭載直前にいちいちその重量を測ってからでないと搭載を禁じられている。進水後、重心試験を行ったところ、船殻のみですでに約30トン重量が増し、重心点が30センチ程計画より高いことがわかった。もともと本艦の計画重心位置はやや高いので、建造に当たりいかにしてこれを低くするかが成否の岐路であった。舞鶴工作部造船課は直ちに艦政本部に対し、本艦の重心点が高く、GM値(Metacentric Height)が少く、復元力が不足と認めて、その対策につき協議してきたが、一応、運転時の結果を見て対策を決めることとなった。8年秋、千鳥は舞鶴湾外で当事者の大きな関心裡に運転を行ったが、施回公試に当たり約28ノットで舵を15度転舵したところ、艦がアッという間に約30度の大傾斜を生じた。このため舵35度の極度施回は危険と認めて中止し、試験続行を中止した。正に問題は生じたのである。このように緊急対策を立てざるを得ない羽目となったが、すでに各種の兵器、艤装品は取付けられているため、少しでも重心位置を下げようとしたが、ほとんど見るべき効果もなく、ついに舷側にバルジ(艦底部より上甲板面にわたる)を装着して、GM値の増加と復元性範囲の向上を期するに至った。再公試の結果、35度の最大転舵角で傾斜角が20度程度に収めることに成功し、11月に軍艦旗を掲揚して竣工した。引続いて佐世保を基地とし連続二昼夜の高速力航行試験を行い、また日本海面において風速15メートルの荒天時に能力試験を施行の上、役務に適するという判定が下された。
友鶴も千鳥についで同様の対策により、翌9年2月に竣工し、そして佐世保へ回航直後に転覆遭難したのである。友鶴の遭難時における艦の状態は、燃料及び水など重心を下げる消耗物件は比較的搭載量が少なかった。これに反し魚雷などは定額を搭載しており、その復元性能は完成公試状態より悪条件で、吃水線上の重心点高さは1.3メートルを超えていた。これらを総合して、復元性範囲は50度を切る状態であったものと推測される。
原因 友鶴の転覆の原因はトップヘビーによる復元性能の不足である。トップヘビーとなった責任は、重武装を強圧した用兵者と、これを許容した造船技術者にある。
対処 昭和9年4月5日、加藤寛治大将を委員長とし、用兵者側及び造船官側より成る臨時艦艇性能調査委員会が成立し、広範な調査を行って対策を立てることとなった。すでに予備役にあってもっぱら東京大学教授として学生の指導教育に携わっていた平賀博士も海軍嘱託として委員会に助力した。
臨時艦艇性能調査委員会は近世造船史上稀有ともいうべきこの事件の原因究明を徹底的に行った。内外のあらゆる文献、過去を含む全艦艇の詳細な復元力の資料と、日本海軍の全艦艇の現状調査は直ちに徹底的に行われた。船の復元力を図3に示す。船の復元力は、起き上り小法師に似ている。友鶴事件は重心点が高いことが最大の原因であることは明らかである。重心が高いことは吃水線上の重心点の高さを増し、GM値を減じ、復元性範囲を小とする。さらに、浅吃水(排水量制限下の設計の宿命)であることは艦の風力による影響を過大とする。兵器の過搭載は本艦の場合は特に顕著である。すなわち、本艦の砲熕、水雷及び電気兵器の重量は167トンに達し、排水量の24パーセントに近い。これを従来の駆逐艦に比較すると睦月型では178トン(排水量比10パーセント)であって、千鳥型は排水量が2.5倍になる一等駆逐艦と同じ重量の兵装であることを示している。画期的なる重武装駆逐艦たる特型(吹雪型)においてすら兵装重量302トン(排水量比13.7パーセント)にすぎない。
このように水雷艇千鳥型が稀に見る重武装艦であり、したがって異常に重心が高く、傾斜時の復元力が欠除しており、遭難当日の状況は艦の進路の斜め後方より追波を受け、波の見掛けの周期と艦の固有振動周期とが同調してひどく揺れてついに転覆に至ったものと推定される。
この場合、もし操艦が適切ならば本艦は転覆しなかったであろう。しかし、いくら当時の自然現象が本艦の転覆に適していたとはいえ、必ずしも稀れではない荒天下において航行の安全を保ち得なかったのである。
明治28年5月、日本海軍の16号水雷艇(54トン)は台湾澎湖島附近で荒天のため転覆した。復元力不足のためである。
昭和7年12月、二等駆逐艦早蕨(820トン)は台湾近海を航行中、荒天のため転覆沈没した。古い16号艇の遭難はともかく、わずか1ヶ年程前に引き起した早蕨の例は、もっと慎重に調査し、対策が採られるべきであった。早蕨の場合、その同型艦20余隻は過去約15年間にわたり、復元性が不足と認められたことがなかったので、本艦が甲板上に色々の物件を過搭載していたことが遭難の原因とされ、復元力が不足していたことは簡単に見逃されてしまったのである。
千鳥型と前後して、同じような用兵側の激しい要求により、同じ計画者の設計になった他の各艦、すなわち航空母艦龍驤、蒼龍、潜水母艦大鯨、巡洋艦最上型、その他掃海艇、敷設艦艇、駆逐艦、駆潜艦にも復元力の不足は共通する。しかも、その程度は新式の艦ほど著しい。ここにおいて委員会は既成、未成を通じ、いやしくも復元力にいささかの不足ありと認められる艦は満足すべきところまでこれを改造し、さらに未起工の艦は根本より設計を変更すべく、各艦種を通じて今後準拠するべき復元性能の目標を定める必要に迫られた。しかし、復元性の相手は自然である。そして、自艦の状況もまた環境によって変化するし、未だ理論造船学もこれに明確な目標を与えるまでに至っていない。あらゆる広範な研究の結果、ついに復元力について限度を定めることはできないという結論に達したものの、同様の失敗を繰返さないためには一応の基準を設ける必要があり、したがって従来から復元性が良好と目され、使用実績もまた十分な艦の性能に基づいて、「復元性能適用表」が作製された。この表で注意すべきことは、従来あまり重視されなかったOG値を最も重視すべき数値の一つとしたこと、水上及び水中側面積比が明示されたことなどである。また、軽荷状態の数値が示され、この数値に達しない場合は海水バラストを張ってこの数値に達することを目途としたのである。これは補てん軽荷状態と称するもので、艦によっては重油タンク内の重油を消費すると、自動的に海水を補てんできる装置も設けられた。さらに、次のような対策が採られ、以後、艦の復元力保持については極めて細心の注意が払われるようになった。
(1) 艦の重量計算と重量実測を一層厳重に行い、計画と実際との間に差が生じた場合は即刻対策が採られるよう規則が設けられた。
(2) 艦の完成後に新設改造が行われる場合には、重量増加と重心点の変化を計算し、必要に応じて必ず代償となる重量を撤去または移動して復元性の低下を防ぐこととなった。
(3) 艦が竣工または大改装が完成したときは残工事をなくし、搭載物はすべて定位置におき、したがって重量及び重心位置を実際の完成状態と一致させて諸公試を行い、性能審議委員を任命して厳密な審議を施行して艦の就役の適否を判定する制度を設けた。
また、既成艦に対しては次のような対策が採られた。
(1) 不要不急の兵器及び艤装品の撤去。艦によっては主要兵器の撤去または小型化も行われた。
(2) 艦底にバラストを搭載、艦によってはバラストキールも装着された。
(3) 艦によっては艦幅の増加または減少を行い、必要あるものはバルジを装備した。
(4) 海水バラストタンクの設置。
さらに、全般的に檣、艦橋、煙突などの低下及び縮小が実施されたのである。
千鳥型水雷艇及び初春型駆逐艦については最も細心の検討が加えられ、主要兵装の一部の撤去及び換装を行った。また、巡洋艦利根型、航空母艦蒼龍、駆逐艦白露型は根本的にその設計の再検討を行い、水雷艇は千鳥型4隻を大改造するとともに、第5番艦よりは新規に設計をやり直して鴻型として建造されるに至った(図4参照)。
このように友鶴の転覆を契機とし、日本海軍の艦艇は全面的にその復元性能に再検討が加えられた。さらに、一艦ごとにその復元性能の目標によって所要の改造設計が実施され、昭和9年春より翌10年にわたり各工廠及び一部民間造船所ですべての改造工事が行われたのである。そして、著しく復元性は改善され、艦によっては兵装及び速力の低下をきたしたものの、改造によって達成された十分なる復元性能はそれを償って余りがあった。しかし、何故艦の保安の根元たる復元性を著しく無視してまで強大な兵装を具備せざるを得なかったのか。用兵者の強圧はもとより最大なる原因であろうが、責任はあくまでこれを許容した造船設計者にある。大正の末期、平賀譲造船中将によって設計された夕張、古鷹、妙高などの復元性能は極めて良好であった。平賀氏が設計の第一線を退いてよりその設計に改正を施した青葉型はすでに復元力はギリギリの線に達し、しかも妙高の改型たる高雄型は重心の上昇をきたし、以後すべての艦が復元性不足のため、大改造を余儀なくされたのである。平賀譲氏が在職中「不譲」振りを発揮し、名艦を設計する一方、必ずしも部内各主務者と気持ちが合わなかったことは、造船計画者の持つべき信念と妥協性とは両立しない場合の多いことを示している。
友鶴事件の技術的責任者たる当時の基本計画主任は造船少将藤本喜久雄氏であり、稀に見る造船設計の逸材であったが、この事件の結果、責を負ってその職を去り、技術研究所出仕に転じた。重巡洋艦高雄型、最上型、特型駆逐艦などのような世界の注目を集めた幾多の最新艦の設計を行い、日本海軍にその人ありと知られた設計の権威者であった。藤本喜久雄氏は自分が設計した各艦の性能について深い再検討を加えようとしたが、心身に受けた大なるショックのため間もなく急逝された。そして、造船大佐福田啓二氏(後、技術中将、東大教授)が基本計画主任に就任した。
このように近世造船史上空前の事件たる友鶴の転覆は、それを転機として復元性能に関して画期的に認識を改め、日本海軍の造艦技術に一紀元を画するに至った。しかるに、翌昭和10年、第四艦隊事件という、再び造船技術に関する大事件が発生した。このようにいわゆる1936年の危機を直前にして、誠に苦難の連続であったのである。
対策 友鶴の転覆を契機として、日本海軍の艦艇が全面的にその復元性能に再検討が加えられた。一艦ごとにその復元性能の目標によって所要の改造設計が実施され、昭和9年春から翌10年にわたりすべての改造工事が行われた(図5参照)。また、建造中の艦艇は根本的にその設計の再検討が行われた。
知識化 ○ 水雷艇友鶴の転覆は、トップヘビーが原因である。少なくとも今日、造船技術者は復元性能については確固たる信念と、貴重な経験を持っている。喉元過ぎて熱さを忘れてはならない。終戦後半世紀を経た今日といえども友鶴事件の殉難者の霊に誓って、この経験を活用すべきである。
○ トップヘビーがストラクチャー(構造と組織)の崩壊を招く。構造のトップヘビーは倒壊、転覆の原因となる。組織のトップヘビーは組織運営不良の原因となる。個人の頭でっかちも失敗の原因となる。
○ 設計者の信念と妥協性とは両立しない。
背景 水雷艇友鶴の転覆に至った背景として、軍縮条約の不利を補うための個艦威力の増大の苛酷な要求が挙げられる。大正10年(1921年)11月、ワシントンで開催された軍備縮小会議で米英日佛伊の五大海軍国は建艦制限を討議し、締結された条約は翌11年8月より発効するに至った。この条約で米英日佛伊の主力艦トン数比はそれぞれ5、5、3、1.75、1.75に制限された。
次いで昭和5年(1930年)、ロンドンにおいて開催された軍縮会議は幾多の紆余曲折を経て補助艦、潜水艦に至る一応の制限を定めた。この条約締結に際し、日本海軍の対米英7割の主張は不十分ながらも表面的に一応は目的を達したかに見えたが、実質的には制限下における米の補助艦を優勢とする結果となり、ワシントン条約以来、個艦威力の増大を極力図った日本海軍の造艦計画は、止むを得ざる事情とはいえ、正に極端な用兵上の要求を受け、過大性能を織込んだ結果、各型艦艇に著しい性能上の欠陥を暴露するに至ったのである。政策と技術との不均衝が何を招くか、無理しなければ用兵上の要求を満足し得ない窮状に置かれた技術者はいかにその所信を表明すべきか、日本海軍の建艦史に特筆すべき友鶴事件と第四艦隊事件は、われわれに痛烈な教訓を与えたのである。
後日談 太平洋戦争中、昭和19年(1944年)10月23日~26日のレイテ湾海戦(フィリピン沖海戦)において、日本海軍は潰滅的敗北を受けた。その後、ハルゼー大将指揮の米海軍第3艦隊はレイテ攻防戦に従事していた。第3艦隊はウルシーで2週間の休養の後、12月13日に再びフィリピン東方に現われてルソン飛行場の攻撃を始めた。高速空母機動部隊は第38任務部隊で、指揮官はマッケイン中将である。
12月17日、第38任務部隊は燃料補給のため東方海面に引き揚げた。しかし、次第に天候が悪化したので、第38任務部隊は正午過ぎには給油作業を中止せざるを得なくなった。18日の朝、気象班も突きとめ得なかった小規模ではあったが強力な台風が第38任務部隊を翻弄して猛威を振るった。レーダーが吹き飛び、舵が利かなくなり、隊内電話も通じなくなった。風速は55メートル/秒に達した。駆逐艦ハル、モナガンおよびスペンスの艦長たちは、底をついた燃料を積み込みたいと望んで、あまりに長いこと待っていて、空タンクの一部に海水を入れて底荷とする時機を失った。その結果、安定性を失った3隻の駆逐艦は物すごい嵐の最高潮時に70度以上の傾斜を繰返し、そのまま転覆して沈んでしまった。ほかに軽航空母艦5隻、護衛航空母艦3隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦8隻が大破し、他に9隻が損傷を受けた。海中に投棄されたり、艦外に吹き飛ばされたり、あるいは衝突し、または焼失した艦上機は183機にのぼった。ほとんど800名の将兵が艦と運命をともにした。第38任務部隊はまるで大海戦でもやったように、ひどく叩きのめされてしまった。
米海軍の3隻の駆逐艦の転覆は、台風と空の燃料タンクという悪条件が重なった結果ではあるが、復元性能に問題があった可能性は否定できない。もちろん、水雷艇友鶴の転覆の原因が復元性能不足であったことは日本海軍の極秘事項であり、米海軍が知る由もない。友鶴事件以後、日本海軍艦艇の転覆事故は皆無である。軍事では、失敗知識の共有はできないのである。
よもやま話 スエーデンにヴァーサ博物館がある。戦艦ヴァーサ(VASA)号一隻のための実物展示と歴史の博物館である。ヴァーサ号は処女航海で転覆した。ヴァーサ号は巨大で華麗な艦の建造への挑戦であったが、斬新的で冒険的なものが、常に成功する保証はない。強兵装によるトップヘビーの失敗で転覆した。しかし、スエーデンには卓越した潜水技術と引揚技術があり、ヴァーサ号の引揚げに成功した。これを展示しているのがヴァーサ博物館であり、スエーデンの誇りと恥の展示である。失敗博物館とも言える。
ヴァーサ号は排水量1,210トン、船体長さ47.5メートル、最大幅11.7メートル、帆数10枚の帆船で、大砲64門を備え、乗組員は145人、兵士は300人であった。
ヴァーサ号の年譜を以下に示す。
1625年 国王グスタブ・アドルフ二世が建造決定
1626年 ストックホルム海軍造船所で建造開始
1627年 進水
1628年 1月16日 国王査察
8月10日 処女航海出港、港で転覆、沈没
1664年 釣鐘型潜水器で、64門の大砲の大半を引上げ
1953年 海底探索開始
1957年 船下のトンネル掘削作業開始
1961年 引揚作業終了(333年後)
1988年 仮設博物館から新博物館への最後の航海
1990年 ヴァーサ博物館竣工
なぜ沈んだのか、誰のせいなのだ。裁判で下記の4者の責任が追求された。
○ 艦長の責任(バラスト、訓練、操艦)
○ 提督の責任(ローリングテスト、航海中止)
○ 国王の責任(過大要求と早期完成)
○ 建造者の責任(安定性極秘計算表、父子伝承)
裁判の判決は、神だけがご存知ですで終了した。大昔からトップヘビーによる転覆はあっても、失敗は繰り返され、その教訓が活かされていないのである。
シナリオ
主シナリオ 組織運営不良、運営の硬直化、理不尽な要求受け入れ、調査・検討の不足、事前検討不足、審査・見直し不足、計画・設計、計画不良、設計不良、水雷艇、トップヘビー、使用、運転・使用、航海、起こり得る被害、潜在危険、荒天の風波、二次災害、損壊、転覆、組織の損失、社会的損失、国防力の低下
情報源 (1)福井静夫、日本の軍艦、出版協同社、昭和31年。
(2)堀 元美、駆逐艦その技術的回顧、原書房、昭和44年。
(3)C.W.ニミッツ、E.B.ポッター(実松 譲、富永謙吾 訳)、ニミッツの太平洋海戦史、恒文社、昭和41年。
死者数 100
マルチメディアファイル 図2.水雷艇 友鶴
図3.船の復元力(船の復元力は起き上り小法師に似ている)
図4.千鳥型水雷艇の改造要領
図5.駆逐艦、水雷艇の復元性能改善前後の艦型比較
分野 材料
データ作成者 小林 英男 (東京工業大学)