失敗事例

事例名称 航空母艦大鳳の魚雷一本の命中による沈没
代表図
事例発生日付 1944年06月19日
事例発生地 サイパン島から南西方向に475マイルの太平洋上
事例発生場所 海上
機器 大鳳は排水量34,200トン、水線長253メートル、速力33.3ノット、飛行機搭載数53機で、日本海軍が建造した最強の航空母艦と称せられていた。大鳳は1941年(昭和16年)7月、川崎重工(神戸)で起工した。建造中に緒戦以来の諸戦訓の対策が実施され、工事を極力急いで1944年(昭和19年)3月に完成した。したがって、あらゆる点で最も実戦的な不沈航空母艦と期待されていた。
事例概要 1944年(昭和19年)6月19日、航空母艦大鳳は日本海軍の信望を一艦に集め、第一機動艦隊の総旗艦として、初陣のマリアナ海戦(あ号作戦)に参加し、第一次攻撃隊を発進させた。その直後、大鳳に米海軍潜水艦アルバコーアの放った魚雷一本が命中した。魚雷の命中によってガソリンタンクの継手が緩み、揮発油ガスが漏洩した。不運なことに、雷撃のショックで前部エレベータが故障し、この開口を塞止したため、揮発油ガスが格納庫内に充満した。数時間後、揮発油ガスに引火し、大爆発を生じ、艦は火炎に覆われ、沈没した。
大鳳は不沈を目標に建造したが、折角設けた飛行甲板の防御も、何の役にも立たなかった。ガソリンタンクの防御法と漏洩する揮発油ガスに対する対策が不十分であったのである。早速その直後、日本海軍連合艦隊の全艦に、造船技術者がかつて夢想もしなかった非常手段が採られた。
事象 航空母艦大鳳は1941年(昭和16年)7月、川崎重工(神戸)で起工した。建造中に緒戦以来の諸戦訓の対策が実施され、工事を極力急いで1944年(昭和19年)3月に完成した。したがって、あらゆる点で最も実戦的な不沈航空母艦と期待されていた。重防御航空母艦なので、他の航空母艦よりもより長く戦場に留まって作戦を継続する任務を負い、爆弾とガソリンは他艦の艦上機へも供給し得るように搭載量が多い。この代償として飛行機搭載数は減少した。
1944年(昭和19年)6月19日、大鳳は日本海軍の信望を一艦に集め、第一機動艦隊の総旗艦として、初陣のマリアナ海戦(あ号作戦)に参加し、第一次攻撃隊を発進させた。その直後の午前8時10分、大鳳に米海軍潜水艦アルバコーアの放った魚雷一本が命中した。魚雷は大鳳の前部ガソリンタンク部の外板に命中し、その炸裂によってタンク上部甲板継手が緩み、揮発油ガスが漏洩して格納庫に充満した。しかし、これは致命傷にはならず、速力も低下しなかった。
不運はこの被害のショックで前部エレベータが故障し、第二次攻撃隊の飛行機を乗せたまま途中で停止したことにあった。飛行甲板前部のエレベータが開口したままなので、これを塞がなければ第二次攻撃隊の発進も、また第一次攻撃隊の帰投機の収容もできない。急きょ、艦の応急作業の全力を挙げてこの開口を塞止したため、換気を阻害し、揮発油ガスは格納庫内に充満し、数時間後、何かの原因でこのガスに引火し、轟然と大爆発を生じ、瞬時にして艦が破壊して、火炎は艦を覆うに至った。一切の消防装置も同時に破壊し、次第に傾斜して沈没した。
大鳳は不沈を目標に建造したが、折角設けた飛行甲板の防御も、何の役にも立たなかった。しかし、これは天災ではない。ガソリンタンクの防御法と漏洩する揮発油ガスに対する対策が不十分であったのである。早速その直後、日本海軍連合艦隊の全艦に、造船技術者がかつて夢想もしなかった非常手段が採られた。これは防沈対策または浮力保持対策と称し、造船技術者の頭の切替えが行われたのである。
第一機動艦隊の災厄はそれだけではなかった。第二次攻撃隊を発進させた後の午前11時20分、航空母艦翔鶴もまた米海軍潜水艦カヴィラに雷撃され、魚雷3本が命中して大火災となり、午後2時1分に大鳳に先立ち沈没した。
経過 日本海軍の大鳳への要求の第一は、敵の攻撃下にさらされても、飛行甲板の機能を損うことなく、第一線において永く戦闘が可能な航空母艦としての建造であった。
航空母艦は船体が巨大で、飛行甲板は敵機の最大の好餌である。わずか一発の直撃爆弾によって航空母艦としての機能は喪失する。事実、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦において、日本海軍の正規航空母艦はことごとくこれを立証することになる。
大鳳への要求は、他の航空母艦が損傷した場合、帰る母艦を失った搭載機を大鳳に着艦できるようにすることでもあった。そしてまた、大鳳に着艦した他艦の搭載機が次の攻撃に出動できるように、余分な燃料と攻撃兵器を積めるようにすることでもあった。普通の航空母艦なら自分の搭載機数だけの燃料と攻撃兵器しか積めなかったが、大鳳の場合はこの点がこれまでの航空母艦と大きく異なっていた。つまり、大鳳は燃料と攻撃兵器を多量に積み込むことができ、敵の攻撃に対して容易に機能を失わない飛行甲板を持っている新しい航空母艦として建造された。この代償として、搭載機は52機で、従来の正規航空母艦と比較してやや減少した。
大鳳の建造に当たっては、飛行甲板の防御に重点が置かれた。当時、敵の攻撃兵器として考えられていたのは、徹甲性爆弾の使用であった。この爆弾はアーマー(甲鈑)を貫いて爆発し、その破壊力は偉大なものだった。たとえ甲板上で炸裂しても飛行機の発着艦に支障を及ぼすくらいの威力があった。最初は250キロ爆弾に耐え得る防御が要求されたが、途中から500キロ爆弾に耐え得る防御が要求された。それには、厚いアーマーを甲板上に張らなければならない。
飛行甲板の全長は257メートル、最大幅は30メートルもあるから、この広い面積にアーマーを張りめぐらすことは、艦の安定性と機動性からとうていできない相談だった。
そこで、飛行機が発着艦する場合に滑走路となる最小面積の部分(長さ150メートル、幅18メートル)だけに、アーマーを張ることになった。500キロ爆弾に耐えるには厚さ75ミリのアーマーが必要で、その下にはさらに厚さ20ミリの特殊鋼板を張った。
飛行機は格納庫から甲板にエレベータで上げる。飛行甲板上のエレベータ部分は縦横14メートルの四角形で、最大の弱点である。従来の正規航空母艦はエレベータ3個であったが、これを前部と後部の2個とし、その間に上記のアーマーを張った。エレベータ部分のアーマーは厚さ50ミリの軽防御であったが、それでも動かすときの重量は100トンに達した。陸上のエレベータでは想像できない重量である。
飛行甲板にアーマーを張ることによって重心が上昇する。このために、飛行甲板の水面高さは12.51メートルと低くした。 
側面つまり横腹のアーマーは、500キロ爆弾の水平爆撃に耐え得る防御とした。火薬庫の部分は、重巡洋艦の8インチ砲弾に耐え得る防御とした。魚雷攻撃に対する水中防御には、二重の壁をつくり、壁と壁との間に液体を入れることで万全を期した。液体には油または水を使用する。液体は気体と異なり圧縮性がなく、魚雷が外壁に当たったときの衝撃は広い範囲に伝播するから、内壁は広い範囲に分散して衝撃を受けることになり、約3割ほど被害を低減できる。液体層が薄いと効果がなくなるので、約90センチの厚さを必要とした。魚雷の炸薬は400キロが普通であり、水中防御はこれに耐えるものであった。
腹部のアーマーは、上部が厚さ185ミリ、下部が厚さ70ミリのくさび型であった。腹部の吃水線下は、艦の中心線に向って斜めになっている傾斜アーマーで、魚雷が垂直に当たらないので、威力をそらすことができた。
艦橋はアイランド型で、艦のほぼ中央に位置した。また、艦橋構造物と一体とした斜め直立煙突が採用された。
原因 大鳳のような重防御航空母艦がわずか一本の魚雷の命中によって沈没するはずがない。沈没の原因は火災である。大鳳は不沈を目標に建造したが、折角設けた飛行甲板の防御も、何の役にも立たなかった。しかし、これは天災ではない。ガソリンタンクの防御法と漏洩する揮発油ガスに対する防火対策が不十分であったのである。
対処 大鳳の沈没以前から、戦訓対策として火災防止対策が取り上げられてきた。防火対策としては可燃物の撤去と、消防設備の完備とが挙げられる。いずれも軍艦ならば当然のことで、考えられることはすべて実施されたはずであった。しかし、太平洋戦争の開戦以来、多数の被害損傷艦を調べると、この程度なら十分であるという限度は、ついに見い出すことができなかった。緒戦以来、まず問題となったのは塗料である。最初は、艦内の塗料を兵員の手で剥がしてから戦闘に参加する場合があった。間もなく不燃塗料が製造されたが、接着力と防錆力が不十分であった。
1944年(昭和19年)6月、マリアナ海戦に敢闘した航空母艦隼鷹は、もともとが客船の改造であり、非常識に木材を多く使用していた。出撃に際して、思い切った可燃物撤去を実施し、およそ燃えると認められるものはほとんど一切、これを投棄した。
マリアナ海戦後、各部を総合した研究会が開催され、ついに居住区などに画期的な対策が採用された。これは隼鷹内務長桜庭久右衛門少佐の提言で、平時の常識では想像もできない対策であった。すなわち、木製物は全部使用しない。塗料は全部剥がし、アートメタルベトンに代える。リノリウムも特定個所以外は廃止する。吊床格納所は水密として防火水槽にする。公室では卓子1個を手術台用とし、その他の調度品はすべて取外し式とする。私室の寝台を帆布製折畳み式とする。カーテンなどは一切廃止する。兵員室は寝台兼用食卓を1個ほど残し、他は撤去する。兵員は鋼甲板上に帆布またはゴザを敷き、この上で座って食事をし、寝るときは毛布にくるまる。このような徹底した処置が発令された。
消防能力の強化も同時に行われた。移動式ポンプを増設し、引火または誘爆を生じ易い個所へは消防管が増設された。
航空母艦では、火災が致命傷となった例がすこぶる多い。ミッドウェー海戦における航空母艦の大量喪失の結果、抜本的な対策として採用されたのが泡沫消火装置である。格納庫などには従来も炭酸ガス放出装置などの方法が採用されていたが、被害と同時に破口を生じるので、炭酸ガス放出の効果が少ない。したがって、ガソリンの火災に対しては、特殊石けん液を強力なポンプにより格納庫内両舷の主管から同時に格納庫内に散布する、いわゆる泡沫消火装置が採用された。格納庫内では、約3メートル間隔の上下二段の噴出口より発火と同時に、瞬間的に特殊石けん泡沫が噴出する。特殊石けん液は噴出口で空気と混合して泡沫となる。本装置は1942年(昭和17年)9月には早くも実験により成果を確認し、急きょ、全航空母艦に装備された。特殊石けん液による泡沫消火装置はそれ自体は珍しいものではないが、航空母艦の場合には規模が大きく、また泡沫の到達距離を大きくすることに努力の跡があった。
対策 防火対策として可燃物の撤去と消防設備の完備に加えて、大鳳の教訓によって、航空母艦のガソリンタンクの防御が再検討された。
航空母艦のガソリンタンクは元来、アーマー防御が施されており、ミッドウェー海戦後には、さらにその外側の空所に水を張ることになった。しかし、マリアナ海戦における大鳳の喪失の結果、このような方法のみでは不十分であることがわかり、さらにこの空所内に鉄筋を組み、コンクリートを充填した。航空母艦瑞鶴の場合には、ガソリンタンク部の外板外側に局部的バルジを設け、バルジ内にもコンクリートを詰めるという非常対策が行われた。
同時に、ガソリンの搭載量を必要最小限とし、空のガソリンタンクは十分乾燥の上、ガソリン管を閉塞することとした。格納庫の通風装置も強化し、揮発油ガスが蓄積しないようにした。
以上の対策の後、間もなく生じた最後の海戦となったフィピリン沖海戦では、航空母艦4隻を喪失したが、いずれの艦も著しく沈没に対する抵抗が強化されたものと認められた。
知識化 大鳳の沈没の原因は、ガソリンタンクの防御法と漏洩する揮発油ガスに対する防火対策が不十分なことにあった。早速その直後、日本海軍連合艦隊の全艦に、造船技術者がかつて夢想もしなかった非常手段の対策が採られた。これは防沈対策または浮力保持対策と称し、造船技術者の頭の切替えが行われたのである。
ミッドウェー海戦の航空母艦4隻喪失の大被害も、大鳳の喪失も、用兵者が気付かなくても技術者が気付けば避け得た問題である。用兵者の要求のみに技術者が応えるという、致命的な欠陥を暴露した。技術者は勉強をしなければならない。卓見を持たなければならない。そして、ことをなすに当たり緻密でなければならない。大鳳の沈没の結果は、技術者の卓見と先見の明、さらに緻密さが国運を支配することを教えてくれた。
本事例を一般化すれば、起きることを想定し、対策を実行した事象と、実際に起きた事象の乖離(かいり)である。魚雷一本の命中では戦闘航海に支障がない重防御の対策を実行しても、それが原因で揮発油ガスが漏洩し、火災に至るという最重要機能の喪失に対する配慮がなかった。多くの事象は連鎖プロセスであり、最悪シナリオの発見が、技術者の卓見と先見の明である。ガソリンと揮発油ガスの危険性は認識していても、漏洩、充満、引火、爆発というプロセスに着目した対策が欠如していた。
技術者を勉強させ、先見の明を持たせるためには、それができる制度と、待遇が必要であり、さらに技術者の意見を重視すべきである。同じ失敗の歴史を繰返してはならない。用兵者を使用者に置き換えれば、軍事を超えて、現在の技術者にも通用する教訓である。
シナリオ
主シナリオ 価値観不良、安全意識不良、リスク認識不良、調査・検討の不足、仮想演習不足、計画・設計、計画不良、専門性不適合、使用、運転・使用、航空母艦、戦闘、破損、破壊・損傷、魚雷命中、二次災害、損壊、ガソリンタンク、漏洩、爆発、破損、大規模破損、沈没、組織の損失、社会的損失、国防力の低下
情報源 (1)福井静夫、日本の軍艦、出版協同社、昭和31年。
(2)矢ヶ崎正経、軍艦開発物語、光文社NF文庫、平成14年。
マルチメディアファイル 図2.航空母艦大鳳の図面
備考 死者数:多数(詳細不明)
分野 材料
データ作成者 小林 英男 (東京工業大学)