首里城火災分科会員募集
【飯野謙次】
私が記憶している中で、初めて見た日本の「城」は大阪城です。当時私は8歳。兄と二人、おばあちゃんに連れられて、大阪城公園の中で食べた天ぷらうどんがおいしかったのを覚えています。その後も社会見学などで「城」をいくつも訪れましたが、その姿を見、説明を読んで感動するようになったのは、ずいぶん大人になってからです。最初の遭遇から、どうしても城とは、天守閣のことだと固定観念が今でも抜けません。そして「石落とし」が何のためにあるのか説明を読み、恐ろしい戦(いくさ)に思いを馳せて、打ち震えたものです。
失敗学会では
2015年春合宿で、沖縄を訪れました。主目的は戦争について学ぶことでしたが、首里城訪問もコースの中にありました。城というものについて、妙な固定観念に囚われていた私には、首里城がいわゆる城には見えず、色のせいもあって平安神宮に似ていると感じたのです。私たちがこの時、目にした首里城は、沖縄戦で破壊された後、1958年に守礼門、1992年に正殿等建物が再建されたものでした。
その歴史について調べてみると、13世紀から14世紀にかけて建立されたらしく、琉球を1429年に統一した尚巴志(しょう・はし)王が拠点としたようです。その後、やがて日本は戦国時代に突入するのですが、歴史書などで読むような激しい戦は、琉球の統一に関する記述では見られず、首里城には天守閣や石落としのようなおどろおどろしいものもなく、琉球に住む人は、基本的に平和な人たちだったのではないかと思います。
琉球は王国として、江戸時代に薩摩藩に侵略されるまで、アジアの中で貿易を盛んに行い、繁栄したようです。その影響でしょうか、下の写真に見られる首里城正殿の屋根飾りも、明らかに日本の社寺や城のものとは趣きが違います。中国、あるいはタイ、インドネシアといった地方の影響を感じます。
この美しい首里城の大部分が、昨2019年10月31日に火災により、焼失したのです。夜中の 2:40ごろに発生した火災は、首里城公園の構造が消防の消火活動を妨げたこともあり、完全に鎮火したのは、同日 13:30のことです。
失敗学会ではこの度、坂本勇さん(インドネシアTextileMuseumシニア研究員)を新規個人会員として迎え、ご本人の希望で「首里城火災分科会」の設立を目指すことになりました。
なぜこの悲しい火災が発生したのか、直接原因、背景要因は何か、同じ事故を繰り返さないためには何が必要か、さらに文化遺産を守っていく上での新たな方策について、沖縄の人たちと一緒になって考察、討議する予定です。特別に分科会費は徴収する予定はなく、参加希望者はとにかくウェルカム、とのことです。参加希望者は、失敗学会事務局(
admin@shippai.org)までご連絡ください。