フォーラム76 in 神戸報告
-よみがえる木造の命-
渡辺 晶さん『木の建築をつくる技術と道具の歴史』
日 時:2010年3月13日土曜日、14:00-17:00
会 場:
竹中大工道具館
神戸市中央区中山手通 4-18-25 (Tel: 078.242.0216)
参加費:失敗学会員 500円、一般 1,500円、大阪分科会員無料。
道具館入場料300円は別途実費。
参加者:岩崎雅昭、飯野謙次、木田一郎、小川 正、タカキ カーラ、
岡田敏明、三田 薫、福井則夫、児玉 仁、藤井信彰
大澤 勲、斉藤貞幸、江川純平、藤田 達 (14名)
【会次第】
14:00 竹中道具館の概要
14:20 竹中道具館展示見学
15:10 竹中大工道具館学芸部長兼主席研究員、
渡辺 晶さん講演『木の建築をつくる技術と道具の歴史』
(1) 概説
(2) 建築技術市場の『失敗事例』
16:20 質疑応答
16:40 大阪分科会討議 -春合宿と夏の大会計画進捗
17:00 終了
17:30 懇親会(杏花村、飲物込5,000円)
筆者が初めて“自分の”大工道具を手にしたのは、中学の時である。
技術家庭の授業で男子は一通りの大工道具を購入した。
縦引き(木目に沿った方向に切る)と横引き(繊維を直角に切断する方向に切る)の歯がついた鋸(のこぎり)、
玄翁(げんのう)、鉋(かんな)、鑿(のみ)、それに今はあまり見なくなった錐(きり)が入っていたとおもう。
嬉しくて、使い方も教わらないうちから鉋の歯の調整を勝手にやり、さっそく鉋の平らな面に玄翁の痕をつけてしまったり、
叩いて裏歯を刃先の先に出してしまったりした。後に授業でどちらも『やってはいけないこと』と教わった。
![](./../../images/html/news497/watanabe.jpg)
さて今回の失敗学フォーラムは、会員岡田敏明さんの御紹介で竹中大工道具館を訪問した。
同館主席研究員の渡辺 晶さんの講演まで拝聴できて、
またまた普通には体験できない学習の機会を得ることができた。失敗学会の効用は大きい。
渡辺さんの講演は、大阪府藤井寺市国府(コウ)の竪穴式住居遺跡に始まり、
富山県小矢部市(オヤベシ)桜町の高床式住居遺跡、法隆寺、東大寺へと続いた。
日本では、異説があるものの、
世界最古の木造建築物と言われる607年建立の法隆寺を始めとし、数多くの木造建築物が残されている。
ただし、それらが風雪や日照りに耐えてそのまま建っていると考えるのは間違いで、
年月の侵食と共に補修がなされている。
釘を一本も使っていないことで良く知られている清水寺舞台があるため、
筆者は子供の頃は日本の社寺は釘を使わないで建てられている、と間違ったイメージを抱いていたが、
そんなことはなくしっかり使われている。
法隆寺修復の話は、この
5月の春合宿でお訪ねする松山の野鍛治、
白鷹幸伯さん(参照: 千年釘と出会う![](./../../images/general/member_jpn.gif)
)に教わった。
このような工房を訪問する機会はまずないと思っていいだろう。今年も春合宿が楽しみだ。
ただし、ここで言う釘は現代の私たちが見慣れた円柱形のものではなく、四角い和釘である。
清水の舞台を支える木組みを「地獄止め」と呼ぶらしい。ところが何でも疑ってかかるのが無粋なエンジニアの悲しい性である。
太い柱が、今もそのまま地面に突き刺さっているとはどうしても思えない。
それこそそこから木が腐って観光客もろとも崩れ落ちてしまう。おそらくはコンクリートの土台の上に地獄止めをくみ上げているのだろう。
ネットをずいぶん探してみたが、木組みの土台を写した写真はついぞ見つからなかった。
しかし、柱に和釘が打たれているところを写真に写したブログがあった。
ただし、強度のためではなく、虫食いを埋めるためとの説明。
ちなみに
公式サイトの本堂・舞台の説明には、
釘を使っていないとは書いていない。この次に清水寺を訪れた時にはよくよく見てみよう。
さて、筆者がこのように鉄と木造建築の話に思いを馳せたのは、
東大寺大仏殿には今は鉄骨が入っているという渡辺さんの話がきっかけだった。
初代建立は8世紀のことだが、現在のものとは多少形が違ったらしい。
この鉄骨を使用するに至った経緯については、金沢工業大学、
山崎幹泰准教授の2000年9月論文『
東大寺大仏殿明治修理における設計案の変遷について』
に詳しい。
東大寺大仏殿と言えば、大仏様の鼻の穴と同じ大きさに開けられた柱の穴だろう。
筆者も小学生の時にくぐった記憶がある。クイズ番組などで、『奈良の大仏の手の形は?』
などと出題されてもとんと覚えていないのに、太い柱の穴をくぐったことは、あれから40年も経つのに覚えている。
体験教育と、聴くだけ・見るだけ教育の効果の違いが鮮烈だ。
![この写真は会員のみ](./article153/listen.jpg)
渡辺さんの説明に聞き入る
渡辺さんや、道具館の他の方々の案内で、展示エリアを回った。
古道具を使った木造建築法を解説していただくと、知らなかったことに目を丸くすることしきりだ。全部挙げたらきりがないので、
道具の向きに関する雑学を一つ紹介しよう。
日本ではカナノコを除いて、木を切るときは鋸は引くものと思っている。
これが世界の中では珍しく、最近トルコでも引くことがわかったが、他の国々では鋸は押して木を切るようにできている。
理由は聞かなかったが、推測するに海外物は歯の鋭利さが劣っており、
金属を切るときのように力を込める必要があったのではないだろうか。さらに話は続く。
鉋も日本では引いて使うのが当たり前だが、
これは先ほどのトルコも含めて海外ではすべからく押すようになっている。
これこそ切り刃の鋭さが違うことが原因だろう。
筆者はアメリカの日曜大工道具屋さんで鉋を見つけて買ったことがある。
木と鉄が組み合わさった日本の物と違い、少しばかり塗ってあるペンキを除いて、
100パーセント鉄でできたものだった。そして日本では金槌や玄翁で叩いて調整する刃の出具合を、
ネジ1本を回して調整するようになっていた。これは便利だと思った。しかしいざ使ってみると、
刃が斜めになっているためか、出具合が均一にならない。右側をちょうどにすると、左側が出すぎて木に噛んでしまい、
左側をちょうどにすると、右側では全く削れない状態になってしまった。
そして筆者はそれを知らずに引いて使っていたもののうまく削れず、自分で切り刃を砥いだ覚えがある。
それでも押そうとは思わず、最後まで引いて使っていた。
なるほど、アメリカでは鉋はマイナーな道具で、木を削る時には電動鑢(ヤスリ)が主流となるわけだ。
Indiana Jones, Raiders of the Lost Ark でアラブ人が大きな剣を振り回して構えたとたん、
Dr. Jones がピストルを引っ張り出して簡単に相手を倒してしまうシーンを思い出した。
![この写真は会員のみ](./article153/planar.jpg)
映画や品質は我慢できる程度の仕上げで良いなら、力ずくの道具でもいいだろう。
しかし、日本の鉋を持った職人が作り出す削り屑は、到底真似ができない。
その削り屑も展示してあったが、途中傷がつくこともなく、
端から端までの1枚の紙のようなそれは厚さ3ミクロン、反対側が透けて見える代物だ。
この鉋屑はしかし、あくまでも副産物で、そのような屑が出る削り方をして、
初めて平面度も表面荒さも、まるで鏡のように仕上がるのだ。
日本の産業も、非常な高品質を実現するのが得意である。
しかし、この高品質に反比例するかのように、
日本の産業界では徹底的にテストをすることがついおろそかになるようだ。
これは他に類を見ない高品質を産み出すことによる反動と考えられなくもない。
一棟しか建たない東大寺。大工さんが丹精込めて建てた一軒家。
それなら不具合が出れば補修可能であろう。しかし、市場に大量投入する製品や、
一品物でもそのサービスを何万人もの人が使用する金融系ソフトなど、
不具合を出しては製造元の存亡に関わる事態に発展することがある。
2002年のみずほ銀行ATM不具合、
2005年のみずほ証券誤発注取消し不可問題など、
明らかに十分なテストを実行しておれば防ぎえたシステムの不具合である。
一方不具合隠しの方が大きく取り上げられたが、
2004年の三菱自動車車軸強度の問題も十分なテストさえ怠らなかったら、
事故は起こらなかっただろう。そして、今年はトヨタのリコール問題だ。
『人なる設計は不完全なり、』と肝に銘じよう。職人芸と工業を混同してはいけない。
不完全なる私たちの産物は徹底的にテストし、問題を洗い出さなければならない。
故石井浩介先生は、『価値づくり設計』の中で工業製品の品質を高めるための手法を数多く教えられた。
その中でも、現在のボーイング777に取り付けられた新型ターボジェットエンジンが、
試験台の上で火を噴いて燃え上がっている写真は忘れられない。どこまで負荷をかけたらどのように破壊するか、
新製品を徹底的に検証している時の1シーンだった。
読者も今度空港に行く機会があったら、是非目を凝らしてみて欲しい。
777は少しばかり機体が747ジャンボより小さい。しかし、四発のジャンボに対して777は双発。
そしてそのエンジンはジャンボのものよりかなり大きい。
限界テストだけでも何億円とかけた後に、市場に現われたそのフォルムは美しい。
講師の渡辺さんには、懇親会にもご出席いただいた。
“フォーラム”という呼び方は今年から始めた。以前の懇談会が懇親会と紛らわしいため、
また新たな出発を記念している。“非公式な集まり”、“失敗学研究会”、“失敗学懇談会”、
“失敗学会フォーラム”とその呼び方が変わってきたが、今回はこの集まりを始めて以来、
二度目の記念すべきことが起こった。フォーラムに参加した人が全員、懇親会にも出席したのだ。
一度目は、
第1回非公式な集まり
(
![](./../../images/general/member_jpn.gif)
)であった。
これは、単に懇親をしようと呼びかけて集まったのだから、当然だった。2003年3月17日、月曜日のことであった。
【飯野謙次】