特定非営利活動法人失敗学会 |
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(会員用フルバージョンはこちら ) ⇒Part1 はこちら Part2: 一澤信三郎帆布への道のり
日 時:2012年 3月 3日土曜日
参加費: 大阪分科会員 無料、失敗学会員 1,000円、一般 2,000円 参加者: 飯野謙次、三田薫、大澤勲、木田一郎、原口文徳、藤井信彰、 北村兼一、岡田敏明、佐々木英三、福井則夫、名村美紀、平松雅伸、 薄知香志、中尾英和、岩崎雅昭、近藤康一、三国外喜男、本多茂 一般参加: 新田実、徳田昌子 【次第】 09:55 [自由参加]立命館大学国際平和ミュージアム前 12:15 集合 島津製作所創業記念館(入館料300円) 13:45 一澤信三郎帆布店舗(お買い物 1) 14:15 一澤信三郎帆布本社訪問(紹介、ビデオ視聴、工場見学) 15:15 一澤信三郎社長、講演 16:15 分科会活動計画会議 17:00 終了 17:30 懇親会(広東料理ぎをん森幸、5,000円) 島津製作所創業記念資料館の外で記念撮影を終えた私たちは、 高瀬川沿いに木屋町通(きやまちどおり)を南下、 三条で東に折れて三条大橋を越えて鴨川を渡り、 東大路通(ひがしおおじどおり)で右に折れて一澤信三郎帆布の店舗に向かった。 上の地図、緑のスポットは途中、足を止めた地点である。 まず、御池通(おいけどおり)に出る手前で岡田先生、 「飯野さん、夏の大会で出講を打診されていたジェフさん、ここで英語を教えていらっしゃるんですよ」 「ええっ、ほんまですか。ありゃ、ほんまですねぇ」 確かにジェフのイングリッシュスクールと看板があり、笑っている似顔絵は見覚えある人の顔だ。 実は、友人の会社創業20周年のイベントに招かれ、私は1ヶ月前に大阪に来ていた。 そのイベントでは、子供の頃にテレビでしか見たことのなかった連獅子の舞に感動し、 津軽三味線と中国琴の美人女性奏者のコラボなど、今どき珍しい絢爛豪華なステージが繰り広げられた。 その中で、日米の文化について講演されたのがジェフ・バーグランド先生である。 話が面白くて、だめもとで是非大阪夏の大会に御出講願ったのだが、かなわなかった。 イングリッシュスクールの写真を送りつけて、出講交渉を粘ってみようかとも思ったが、 昨今の世の中、ストーカーに間違えられても困ってしまう。潔くあきらめるとしよう。 その講演の中でなるほどと感服した一節を紹介しよう。言葉は違っているかもしれないが、 それはご勘弁願いたい。
国際社会の中で、日本人は自分の意見を表現することが苦手とされている。
アメリカでは、自分の意見を主張する練習を子供のときからやらされる。
つまり、情報発信の練習をずーっと続けているわけだ。
これに対して、日本では情報受信の練習を常日頃から行なっている。
ちょっとした目配せや、咳払いなどで人の気持ちを読み取ってしまう。
他の文化圏では見られないことだ。
以下文章は、自分の考察かジェフ先生の言葉かわからなくなってしまった。
往々にしてこういうことがあるから気をつけなければならない。
人の意見をさも自分の考えのように言うのははしたないし、
人の口に勝手に言葉を放り込むのはもっといけない。
おそらくはジェフ先生の言葉に刺激され、
その時に聴いたことと本記事を書いている間に形成された自分の考察がごっちゃになっていると思う。
島国日本は、モンゴル帝国による1274年文永の役(ぶんえいのえき)と1281年弘安の役(こうあんのえき)以外、
外国の脅威を感じたことがなかった。しかし、技術の進歩と人口増加に引きずられ、
諸国が隣国に侵略を行なうようになる。現代からみれば内紛に過ぎないが、戦国時代への突入である。
やがて、織田信長、豊臣秀吉によって天下統一への足がかりができたが、徳川家康が関が原合戦(1600年)の後、
江戸幕府を開き(1603年)、大坂夏の陣による日本国内統一が実現したのが1615年とされる。
そこから徐々に社会制度が整備され、人々は画一的な生活を送るようになった。この時代が250年近くも続いた。
その間も細々と外交を行なっていたが、1853年のペリー(Matthew Calbraith Perry)来航以来、
日本人は異文化との交流を余儀なくされ、その後戦争までやってのけて勝ったり負けたりした。
たかだか150年余り前からのことである。
さて、話を東山に戻そう。三条大橋を渡ったところで、岡田先生の号令で小休止となった。
鴨川の東岸地下を走る京阪鴨東線(けいはんおうとうせん)の地下出入口の真前だが、
大きな銅像が両手をついて、いかつい顔で一点を睨んでいる。後で調べると、
高山彦九郎正之(1747-1793)という人の像とわかった。幕末直前の勤皇派思想家・社会活動家で、
睨んでいる一点は京都御所である。
すると睨んでいるのではなく、畏敬の念を持って見つめていることになるが、
いかんせん顔がいかついから怒っているようにしか見えない。
調べると、幕末志士の多くに影響を与えたそうだが、幕府には目をつけられていた。
戦前は修身の教科書によく登場したらしい。戦争突入への扇動と勤皇思想がうまく合致したのだろう。
今ではほとんど聞かなくなった。明治の開国後も、画一的国民生活は長く続いた。 私が物心ついた子供となった1960年代以降もそれは続いている。 誰もが自分の家庭は中産階級だと思い、同じ指導要領で作られる教科書で勉強をし、 土曜の夜は8時だョ!全員集合を見、年末は紅白歌合戦と決まっていた。 このような1億人を越える単一民族(正確には、アイヌ人、朝鮮・韓国・中国系日本人など、100%の単一民族ではない) による経済的にも強大な国家は他に類を見ない。 このような社会環境の中で育てば、自然暗黙知が膨大になる。 見たり、聞いたりしてきたものが同じで、 ものの考え方も一つの指針に沿うよう育てられてきた。 犯罪者のような社会の異分子は考察対象外として、大会社の社長さんであれ、 新宿中央公園でダンボールをねぐらとするホームレスであれ、 同じ状況の設問を与えられ、感想を聞かれると同じような思考経路をたどって似たり寄ったりの答えを出す。 もちろん、自分が設問解決に使用できるリソースが問われる場合は別の問題だ。 このように自分の周りが同じ暗黙知を共有している中で、 うまく人生をこなしていくには、どうしても情報受信の感度を高く持たなければならない。 そうか、だから私たちはその逆の情報発信が苦手なのだ。 これまで、学生にプレゼンの要領を教える時に、 苦手だとはわかっていたが、それがなぜかようやく納得できる答えに当たったように思う。 同様に、このごろあまり聞かなくなった修身・道徳の登場人物に二宮尊徳(1787-1856)がいる。 全国の小学校や図書館で、その薪を背負って歩きながら読書をする銅像をよく見かける。 寸分を惜しんで歩きながらも読書をしたという勉強熱心を奨励するためだが、 現代の交通事情ではこれはすこぶる危ない。それに、さっさと歩いたら読書などできるものではない。 ここ1、2年の携帯を手にメールを書いたり読んだりしながら歩く若者とその姿が重なる。 東大路通の右側を南下して目的地に近づくと、 「信三郎布包」 の小さめの看板が目に入る。ちなみに“布包”は一字だが、そのような漢字は日本語にはなく、 一澤信三郎さんが捻り出された“カバン”という字だそうだ。 中をのぞくと、なるほど職人達がカバン作りに余念がない。 しかしどうやらここは最初の目的地の店舗ではないようだ。さらに進んで細い道を渡ると大きな暖簾が見えてきた。 後ろの方から店舗を覗くと、20人様御一行が入るには少々の時間がかかりそうだ。 これ幸いと、先ほどの細い道の交差点から、 東大路通を渡ったコンビニ前の吸殻入れのところまで戻って一服することにした。 今では少数派となった同行の愛煙家達も、同じ思いだったようだ。 世の中から喫煙場所が消えつつあるこのごろ、タバコを吸う人は動物的勘をもって喫煙場所を見つけるのがうまい。 嫌煙者には迷惑な白い煙を上に吹き上げながら、ふと来し方を見ると、懐かしい鉄人28号の大型フィギュアが目に飛び込んできた。 兵庫県神戸市にできたという18mのモニュメントにはとてもかなわないが、1m近くありそうだ。 さらにその隣には、天狗のお面を挟んでゲゲゲの鬼太郎のフィギュア。思わずシャッターを押していた。 学生時代をこの辺りで過ごされた会員に後で聞くと、その当時(30年以上も前)からその店はあったらしい。 かろうじて読める古い看板から、道具商であることが判明。自動車タイヤのアルミホィールや、幌馬車の木製車輪、 さらに大きな壁掛け時計など、何だかわかるがなんでそこに並んでいるのか理解しがたい商品がその当時から並べられていたらしい。 なんとも不思議なたたずまいだ。 少し急いでタバコを終わらせ、いよいよ今回のメインイベント、一澤信三郎帆布の店舗へと足を進めた。 ⇒Part3 はこちら 5月18(金)-20(日)2012年春合宿計画
【飯野謙次】
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