特定非営利活動法人失敗学会 |
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失敗学講演の旅21: 涅槃仏と日本の孤立
日中の最高気温がようやく10℃を超えるまだまだ肌寒い東京を脱出し、タイのバンコックに行った。2日間かけてタイで失敗学の講義を行うためである。事前に調べて[1]わかっていたものの、気温が30℃を超えるのはやはり暑い。ただし、湿度が高くなかったので、日本の夏よりはよほど過ごしやすかった。 丸一日を観光にとってあったので到着の翌朝、王宮グランドパレスに行った。どの建物が何なのか、まったくわからずにふらふら歩き回るのが僕のスタイルだ。それでも入り口まではたどり着かないといけないので最初は地図とにらめっこである。 入り口では男女警備員が目を光らせている。涼しげなキャミソール姿や短パンだと、それを隠すためのショールを有料で借りなければならない。人の流れについて歩いていろんな建物を見た。やたら金色が多いのと、細かいセラミックタイルやガラス玉をちりばめているのが特徴だ。そして屋根の角は空に向かって尖っており、鬼のような像があちこちの入り口に立っている。 チャックリーマハープラサート宮殿(この名前は後から調べた)正面の階段両脇には、1名ずつ衛兵が立っていた。有名なロンドンバッキンガム宮殿の微動だにしない衛兵と違い、基本は動かないが、記念撮影をする観光客に時折目をやっている。その後ろ、やはり左右2つに分かれた武器の展示室があった。向かって左が刀剣類、右が銃火器。何気なく入ったのだが、刀剣類の展示に混じって日本刀も展示してあったので少なからず驚いた。英語の説明を読むと、山田長政がいたころに士格のものが帯刀するため日本から送られたもののようだ。 久しぶりに見た名前だった。今改めてネットで見てみる[2]と、山田長政は駿府馬場町(今の静岡市)に生まれ、1612年頃タイ(当時のシャム)日本人町に移住、アユタヤ王朝に侵攻してきたスペイン艦隊を斥けるなど武力でも、また貿易商としても活躍したらしい。しかし後年、王位継承をめぐる政争に巻き込まれ、アユタヤを追われ暗殺されてしまう。最盛期には、8,000人もいた日本人町も焼き討ちされ、1830年代後半には日本も鎖国に入り当時の日泰関係は終わる。 今は、日本人は何人いるのだろうと調べると55,000人を超える[3]から驚きだ。一方の在日タイ人も4万人弱いる。日本とタイの交易が盛んになったのは約600年前とされている。1887年には「日暹(にちせん)修好通商に関する宣言」(日タイ修好宣言)が発行され正式な国交が開始された[4]ものの、第二次世界大戦では日本がタイに進駐したが2国は日泰攻守同盟を結び、タイは枢軸国として戦った。ただし、タイ国内には連合国側と通じる勢力もあったため1945年の終戦で降伏することもなかった。 戦後日泰交流が回復し、現在に至っている。数ある東南アジアの国々の中でも日本がタイと友好関係が強いのは、どちらもヨーロッパ列強の植民地政策に屈しなかったこと、日本の皇室とタイ王室の交流、源流から発達させた独自の文字を持つことなど似たところが多いこともあるだろう。タイの政情はしかし不安定で、立憲民主制に移行した1932以降、19回目のクーデターが昨2014年に勃発し、以来軍事独裁政権となっている[6]。 グランドパレスを後に、近くの食堂で Gaeng Kari Gai (チキンのイエローカレー)をライス抜きで食し、ワット・ポーに向かった。途中、道端では小さな仏像入りのペンダントをやたら売っていた。プラクルアン(Phra Kruang)というらしい。日本のお守りといったところだろうか。 グランドパレスより一回り小さいワット・ポーでは、わずかな下調べで巨大な涅槃仏像があると知っていた。これを見ようと思っていたが、他の門番像や金色の仏像列、スピーカから聞こえてくる読経の声などに気をとられ、うろうろしていたらいつの間にか出口を出てしまっていた。これはいけないと、同じように出口から出てしまった母娘連れの後について再入場した。今度はタイ語で書かれたわかりにくい構内地図を睨みながら、目的の涅槃仏殿を探した。地図には、指で何度も押されたに違いない一箇所だけ、塗料が剥げているところがあった。ここだと見当をつけ、目指していくと何のことはない、入り口を入ってすぐのところだった。 涅槃仏像は高さ 15m、長さは 46m あり、ブロックと漆喰で形を作ったものにラッカーと金箔で色をつけた巨大な金色像である[7]。右腕でひじ枕を作って横たわっているのは釈迦の入滅(Nirvana)の状態を表しているという。 英語ページでも探してみると、涅槃像が巨大化している謂れがあった[8]。
釈迦に会いたいが、敬意を表するのを嫌がった巨人 Asurindarahu を前に、寝たまま釈迦が大きくなり、また天国には巨人がいっぱいいるのを見せたところ、Asirundarahu が恐れ入った。
とあった。Asurindarahu がカタカナでは誰なのか探したが出てこない。最初は『進撃の巨人』、次に手塚治虫の『ブッダ』に出てくる巨人ヤタラに当たった。さすがは世界に誇るアニメ大国だ。ただし、中国語圏のページには当の物語が出てくる。日本にはそのストーリーが伝わっていないのか、それともアニメ文化に押されて上位に出てこないだけなのか。日本の英語力のなさは有名(*)だが、これからますます熾烈になる情報競争の中でいずれ世界に取り残されるのではないかと焦燥感にさいなまれる。僕も二個学期だけ、東大の機械系学部生に英語を教える教壇に立ったことがある。学部の授業は厳しく詰めるのが不評でそれら学期が終わるとやめてしまった。創造設計を英語で教える大学院授業は今も続いており、年々生徒数が増えるが受講生はほとんど留学生になった。日本人でもがんばった子数人は海外留学の切符を手に入れ、合格通知を手に嬉しそうにお礼を言いに来てくれた。外国語を楽に修得できる方法があると夢物語を見るのは自由だが、その寝ボケが世界での競争力を削いでいる。 帰りは客待ちタクシーと値段交渉になった。日本でも白タクはいるが、タイでは普通のメータをつけたタクシーも、観光地では白タクに変身するところがお国柄か。バンコクは渋滞がひどかった。運転手が渋滞を通りたくないから値段を吊り上げるのも致し方ないのかもしれない。さすがに写真のドアなし三輪車には乗らずツートンカラーの4輪に乗った。朝来るときの倍くらい時間も値段もかかった。バンコクには自動二輪バイクがあって、それが一番早いと後から教わった。 【参考文献】 |
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