稲むらの火の館(濱口梧陵記念館、津波防災教育センター)訪問記録
日時 :2025/5/24(土)13:00-15:00頃
場所 :稲むらの火の館 (和歌山県有田郡広川町広671、Tel.0737-64-1760)
同行者:浅井 香葉、岩崎 雅昭、岡田 敏明、川久保 治、川路 明人、佐藤 公一、三田 薫、
福田 晃、(五十音順、敬称略) 佐伯 公三(文責)
概要:
失敗学会 大阪分科会・春の合宿(2025)で「稲むらの火の館」を訪問。「稲むらの火の館」は2007年3月竣工、4月開館。濱口梧陵記念館、津波防災教育センターの二つの施設からなる。
当初は広川堤防、濱口梧陵の銅像も見学する予定だったが、雨天のため屋外見学は中止し、「稲むらの火の館」の前館長の**さん、語り部の**さんからお話を伺った。
濱口梧陵(1820|文政3年-1885|明治18年)は、小泉八雲の小説「生ける神(A Living God)」(1896)、尋常小学校5年生の国語読本「稲むらの火」(湯浅町出身の教員・中井常三が「A Living God」を小学生向けに凝縮)の浜口五兵衛のモデルとなった人物。物語では嘉永7年11月5日(1854年12月24日、後に改元され安政元年とされる)の安政南海地震の津波の際に、高台にある自身の田の稲むら(藁の山)に火をつけて津波に気が付かない村人を誘導してその命を救った事象が語られるが、史実とは異なる設定も多い。史実では2度の地震(1度目は住民は退避したが津波は来ず、翌日2度目の地震は数次の津波を伴う)に際し、長時間に渡り複雑で判断に迷う場面が多かった(はずの)中で卓抜した危機管理能力(適切なる状況認識とリーダーシップ)を発揮、加えて津波後もスピード感あふれる活動(村民の食料確保、私財を投じての防潮堤建設、復興への取組みなど)で危機を救っている。梧陵の行動は、単なる慈善事業ではなく、被災者の生活再建と自立を支援し、地域社会全体の復興と将来の安全を確保することを目的としていた。また、堤防建設における瓦礫の再利用や、被災者の雇用創出といった多角的な視点:「築堤の工を起こすは住民百世の安堵を図る所以なり」(1885年2月)との言葉は、現代の災害復興や防災対策にも通じる知恵と言える。
広川町は(記録に残るもので過去8回)1361、1475、1498、1585、1605、1707、1854、1946年と、繰り返し大きな津波被害を受けている。1946|昭和21年の昭和南海地震の津波(約4m)では、1400年頃に畠山氏が築いた波除石垣、梧陵が植林・築造した松並木と土盛堤防(防浪石堤、W2m×H5m×L600m)と津波伝承(早期避難)のおかげで、地元住民の被害は軽微であった一方、県外からの転入者が住む川沿いの紡績会社社員寮では川を遡上した津波の被害を受けたとのこと。歴史を知っておくことの大切さを思い知る教訓でもある。
稲むらの火の館は、濱口梧陵の功績と「稲むらの火」の教訓を通して、来館者に津波防災の重要性を伝えている。多くの人に訪れ、知ってほしい伝承館であった。

https://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/tsunami/inamura/p4.html
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/tsunami/inamura/p6.htmから引用
以下は、稲むらの火の館 前館長さん、語り部の方の説明内容をまとめたもの。
1.稲むらの火の館の設立経緯と目的
- 稲むらの火の館は、濱口梧陵(1820|文政3~1885|明治18)の功績を伝えるために設立された施設であり、濱口梧陵記念館と津波防災教育センターの2つの施設から構成されている。
- 広川町の住民運動で「濱口梧陵の記念館が欲しい」という声が上がったのが設立のきっかけ。
- 濱口家の当時のヤマサ醤油社長が、自宅と土地を広川町に寄付したことで実現。広大な土地を寄付されたことから、濱口記念館だけでなく、津波避難の伝承施設(津波防災教育センター)も建設されることになった。施設は、通常時のガイダンスルームとしてだけでなく、津波警報発令時には一時避難所としても機能し、毛布、マット、水、食料などが備蓄されている。
2.濱口梧陵の人物像と生誕200年記念事業
- 濱口梧陵(1820年生まれ)は、ヤマサ醤油の7代目当主。現在の社長は13代目にあたるため、梧陵は創業の中間期の人物。
- 生誕200年にあたる2020年には、記念講演会やシンポジウムが計画されていたが、新型コロナウイルスの影響で大人数を集めるイベントは中止となった。
- 代替企画として、研究者による地震・津波に関する原稿募集や、小中学生から濱口梧陵への手紙募集を行ない、手紙募集では全国から800通以上が集まった。
3.「稲むらの火」の物語と史実
- 「稲むらの火」の物語は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「A Living God」が原作。
- 小泉八雲は直接広村に来た記録はなく、明治29年の明治三陸津波の取材報告と安政南海地震時の広村の話を組み合わせて物語を創作したと考えられている。
- 物語では、庄屋の五兵衛が高台の稲むらに火をつけ、村人を高台に誘導して津波から助けたことになっているが、史実では、濱口梧陵(物語の五兵衛にあたる)はヤマサ醤油の本宅(村人と同じ場所にあった)に滞在していた。津波後、避難の呼びかけ中に自身も津波に飲まれかけながらも助かり、避難場所の八幡神社で避難が遅れた人がいることに気づき、若者たちと捜索に出た。その際、暗闇の中で道に迷っている人たちに避難方向を示すべく、田んぼの稲むらに火をつけたのが史実。
- 物語と史実には違いがあるが、津波からの避難を呼びかけたという点では共通している。
4.広川町の津波被害の歴史と堤防建設
- 広川町は和歌山県内でも津波被害が大きい地域であり、過去に8回の津波被害の記録があった。これは地形的な要因が原因と考えられている。
- 過去の津波被害を受けて、指導者たちは津波対策を行ってきた。最も古い堤防は、室町時代(1400年頃)に紀伊の国を支配していた畠山氏が築いた「畠山堤防」であり、津波対策の堤防としては全国で最も古いと言われている。次に古い堤防は、江戸時代初期(1650年頃)に徳川頼宣が築いた石垣の堤防である。
- 安政南海地震(1854年11月5日、M8.4)発生時、広村にはこれら2つの堤防があったが、津波はこれらの堤防を乗り越えて村に浸水した。
- 地震で10軒の家が潰れ、その後の津波で約半分の家が流失、残った家も全て浸水し、家屋被害率は100%であった。
5.濱口梧陵による広村堤防の建設:
- 安政南海地震の後、濱口梧陵は「もう津波でこんな思いをするのはごりごりだ」と考え、次の津波に備えるための大規模な堤防建設を計画した。
- 広村堤防は、昭和3年に国の史跡に指定されている。(濱口梧陵が作った堤防と畠山堤防を合わせたもの)
- 堤防建設には紀州藩への申請が必要だったが、梧陵は「この堤防工事をするのはこの村の皆のこれからずっと長い間の安全のためにするもの。堤防工事の費用は私が用意するのでとにかく早く許可をしてほしい」と申請し、すぐに許可された。安政2年(1855年)1月に申請、2月には工事が着工された。
堤防建設の主な目的は以下の4つ:
- ①津波防災:次の津波への備え。
- ②被災者の雇用対策:津波で家や田畑を失った村人の生活を支えるため、堤防工事の仕事を提供し、日当を支払った。
- ③年貢の軽減:賑わっていた海岸の土地を堤防敷地にすることで、固定資産税にあたる年貢の軽減を図った。
- ④瓦礫処理:津波で発生した大量の瓦礫を堤防の材料として利用する(近年になって古文書から発見された)。
- 堤防工事には毎日400~500人の村人が参加し、男女、老若男女問わず仕事に従事した。
建設された堤防は、安政津波の高さ(約5m)に合わせて作られており、現在も広川町の海岸に残っている。
- 昭和南海地震(1946年、M8.0)の津波(高さ4m)の際には、広村の中心街への浸水を防ぐ効果を発揮した。ただし、小さな川を遡上した津波により、製糸会社の寮にいた20人ほどが亡くなった。これは、彼らが村の津波の歴史や避難方法を知らなかったためと考えられている。
- 堤防建設にかかった費用は、当時の金額で銀94貫(現在の約2億円)であり、濱口梧陵が会社の資金を投じて建設した。
6.耐久社(私塾)の設立と教育への貢献:
- 安政南海地震の2年前、濱口梧陵は広村に戻り、教育事業を始めようとしていた。
福沢諭吉を招き、「広村稽古場」という私塾を始めましたが、安政地震で被災した。
- その後、約6年を経て「耐久社」という7棟の校舎を持つ大規模な私塾を設立。
「長く久しく伝えるため」という意味で「耐久」と名付けられた。
- 耐久社の学則は、当時としては画期的なもので、日本書紀、国史、大日本史などが教えられ、無駄な勉強をせず、必要な学問を学ぶことが重視された。
(※)ご参考:耐久社の学則をChatGPTに読ませて現代語訳したものを下に添付
- 耐久社は濱口梧陵が作り、命名した学校。後に中学校、高等学校へと発展し、現在も「耐久高校」として隣町(湯浅町)で存続している。
- 耐久高校の校庭の中央には濱口梧陵の銅像が建てられている。
7.医療への貢献:
- 濱口梧陵は、江戸や銚子でコレラ対策を行うなど、医学分野にも貢献した。
8.濱口梧陵の銅像:
- 濱口梧陵の銅像は和歌山県内に3体あり、広村の耐久中学校にあるものが最終学年の卒業生によって建てられたもの。
- 和歌山県庁前にある銅像は、最初児童公園に建てられたが、戦時中に供出され、後に再建された。
9.防災意識の啓発:
- 「稲むらの火の館」では、来館者に対し、たとえ普段津波の心配のない場所に住んでいても、海の近くに旅行に行った際などに大きな地震に遭遇した場合は、念のため高台に避難することの重要性を伝えている。
10.まとめ
- 濱口梧陵は、安政南海地震という未曽有の災害に直面し、自身の被災体験を通して、迅速な避難誘導、被災者の救援、そして長期的な視点に立った防災インフラ整備(広村堤防建設)と教育事業(耐久社設立)に尽力した。彼の行動は、単なる慈善事業ではなく、被災者の生活再建と自立を支援し、地域社会全体の復興と将来の安全を確保することを目的としていた。また、堤防建設における瓦礫の再利用や、被災者の雇用創出といった多角的な視点は、現代の災害復興や防災対策にも通じる知恵と言える。稲むらの火の館は、濱口梧陵のこれらの功績と「稲むらの火」の教訓を通して、来館者に津波防災の重要性を伝えている。
ご参考:「耐久社」の学則の現代語訳
「学則」の写真をChatGPTで処理し解説を作成したもの。誤っている可能性もありますので、ご容赦を。
「学則の写真」(佐伯撮影)
学則の序文(理念と目的)の「原文・読み下し」
學問ノ要ハ安民ヲ守リ 民ノ本ハ修身ニ在リ
先ヅ五倫ヲ明ニシ道藝ヲ學フベシ 學大雅ノ風ヲ存シ
詩書ヲ講シ、經書ヲ讀ミ 禮樂ヲ致シ、太平ノ政ヲ知リ
歷史ヲ講ジ、制度ヲ治メ 治亂ヲ察シ、損益ヲ知リ
政理ヲ達ヘシ
訓詁ヲ講シ、漢儒ノ基ニ達ヘシ 課書ヲ精究シ、經史ヲ精究シ
古言ヲ審シ、物ニ及ビ 身ヲ得テ、文ヲ要ス
道ヲ載ス詩ヲ志シ、辭ヲ述ベ 大意ヲ鮮得シ、朝風ヲ弄シ
精研他日成業ニ至ルモ 徒善ヲ學完スルモ
願ハクハ規模宏遠ニシテ 修言切利、談ヲ成サン
序文の「現代語訳」
学問の本質的な目的は、社会を安定させ、人々を安心させることである。
そのためには、まず自らの行いを正すこと(修身)が必要である。
五倫(親子・君臣・夫婦・長幼・朋友の道)を理解し、道徳や芸術を学ぶべきである。
高い志(大雅の風)を持ち、詩や書を学び、経書(儒教の古典)を読む。
礼と音楽の道を修め、理想の政治を理解する。
歴史を学び、制度の意義を知り、治乱を見極め、損益を判断する力を持つべきである。
そして、政治の道理を深く理解することが求められる。
言葉の意味(訓詁)をきちんと学び、漢の儒学の基本を身につける。
経典や歴史書を精密に学び、古語の意味を正確に知り、自然や事物にも理解を及ぼす。
自らを鍛え、文学的な素養を高め、道理を文に表し、詩や文章に心を寄せる。
要点を押さえ、風雅の世界に親しみ、たゆまず精進して将来業績を上げるもよし、
あるいは善道を学び人格を磨くもよし。
願わくば、視野を広く高く持ち、正しい言葉と鋭い考察で物事を論じ、実を成すことを目指してほしい。
序文の解説
この序文は、単なる知識伝達を目的としたものではなく、「人間形成」を中心に据えた教育理念を力強く示しています。徳(修身)、知(学問)、芸(詩書礼楽)をバランスよく学び、それを実社会(政治・経済・文化)の中で生かす。それこそが耐久社の学問の本義とされています。
課目一覧と学習方針
◆ 原文(書名・科目分類)
※一部重複をまとめ、簡潔に整理しています。
課程 |
書目(主な学習書) |
国学(日本学) |
『古事記』『日本書紀』『大日本史』『延喜式』『万葉集』『風土記』『法曹至要抄』 |
漢学(儒教) |
『尚書』『論語』『周官』『礼記』『戴記』 |
政治・実務 |
『資治通鑑』『経済録』 |
補助教材(晩学者向け) |
『綱鑑易知録』『四術署説』 |
また、以下のような記述があります:
本課書浩瀚不 |
可速了 晩學 |
徒欲得其大旨者 |
宜就此目次 |
現代語訳(意訳)
本課(この学び)の書は非常に膨大であり、一朝一夕には学び終えることはできない。
年をとってから学び始めた者や、学問の要点だけを知りたい者は、
ここに示した目次(=課目一覧)を参考にして学ぶと良い。
解説
ここでは、具体的に学ぶべき書物が分野別に明示され、非常に体系的なカリキュラムが組まれていたことが分かります。また、「晩学の徒」をも配慮した文言に、柔軟で誰にでも開かれた教育の精神が現れています。
まとめ
- 知識と教養だけでなく、「人格の陶冶」を重んじる教育理念
- 国学と漢学をバランスよく学ぶ幅広い学び
- 将来を見据えた、実践的・社会的な応用力の養成
- 年齢や出自を問わず、誰でも学び得る開かれた学び舎
耐久社の学則は、まさに明治の教育の先駆けとして、今もなお輝きを放つ人材育成の礎といえるでしょう。