春合宿に参加して 「百年後のふるさとを守る」

大阪分科会  三田 薫
 和歌山県広川町の「稲むらの火の館」を訪問した。「稲むらの火の館」とは、濱口梧陵記念館(旧家)と津波防災教育センターのこの二つの建物を総称しての名称である。
 私の「稲むらの火の館」の訪問は、今回で三度目となる。今回もいろいろな展示品を興味深く見ることができた。その後、3D映像の時間となり隣接する津波防災教育センターの映像シアター室に入った。この映像は、元群馬大学大学院の片田敏孝教授の指導のもと「想定に囚われるな」、「最善を尽くせ」、「率先避難者になれ」という津波避難の三原則に基づいて製作されたもので大変理解しやすく、また、映像のナレーターはテレビで聞き覚えのある声、テロップを見るまでもなくNHKの元アナウンサーの松平定知氏であった。何度見ても良い教材だと感じた。
 その後、私たちは津波防災教育センターの3階の研修場(講義室)において、元館長の﨑山光一氏から約30分間のご講演を拝聴した。
 濱口梧陵の築堤の目的は四つあって、一つ目は将来に亘っての津波防災、1946(昭和21)年の昭和の南海地震(M8.0)から村を守り村人の命を守ったこと。ただし、広川上流の紡績工場では安政の津波以降に新しく建てられものであるため津波の教訓が生かせず24人の従業員が亡くなったことなど、新しい事柄を教えていただいた。
 二つ目は被災者の就労対策。賃金を払い村人の生活の糧に充てたこと。
 三つ目は年貢の軽減(堤防敷地の年貢免除)、塩害による農作物の不作による救済として紀州藩に掛け合ったこと。
 四つ目として、新たな知見として古文書から分かったことは、ガレキの処理であった。このガレキの処理も初めて聞いたことであり、1923(大正12)年の関東大震災での横浜港山下公園とまったく同じであり、震災や津波でのガレキ処理は、江戸時代も現在も通じるものがあった。
 元館長の﨑山光一氏のご講演は、まさしく「現地」で「現物」を見ながら「現人」の話を聴く三現主義であった。
 もうひとつの発見は、津波防災教育センターの研修場(講義室)は、普段は収容人員約100人程度の研修場として利用されているものの、机を片付ければ約200人が入れる避難場所として設計されていたのであった。研修場の壁際の棚には、水や非常食、毛布や生活必需品が並べられており、この建物の設計者の知恵に脱帽した。実際2011(平成23)年3月の東日本大震災時には多くの町人がこの場所に避難したという実績も紹介されていた。もっともっと社会一般において防災施設を普段利用と兼用する知恵も必要だろう。
 最後に、東日本大震災の発生した2011(平成23)年、この年に光村図書出版(株)が発行している小学校五年生の国語の教科書には、「百年後のふるさとを守る」と題して、小学生に分かりやすく河田惠昭先生(関西大学特別任命教授)による文章が約12ページにわたり掲載されていた。この文章は、安政の南海地震を題材としたもので、和歌山県広村(現広川町)での濱口梧陵の特に堤防建設までの活躍を描いたもので教材として登載されていた。濱口梧陵の「稲むらの火の話」を小学生に伝える大切なことだと痛感した。
 しかしながら、2020(令和2)年出版社編集段階の事情によって、この作品が教科書から削除され、現在発行の同社の教科書には掲載されなくなった。大変残念なことであり再度の何らかの方法で掲載を望むものである。