2025年 失敗学会 春合宿の行程+ちょこっと感想
浅井 香葉
5月24日(土)
10:30  和歌山駅東口集合
印南交通のバスに乗車して出発

11:00  湯浅町観光用駐車場到着 山田川 新北栄橋たもと
 「湯浅町 津波救命艇」
 真っ黄色の救難艇が駐車場に鎮座している。
 トイレ設置、食料等も積んでいる。救難信号を発して救助が来るまで耐久。 
 『ドクターイエロー』のように目立つ避難目標が日常生活の場で脳裏にインプットされ、土砂降りで視界不良のときも遠くから視認して辿り着けると感銘を受けた。

11:05  深専寺
 「大地震津波心得の記碑」
 駐車場から新北栄橋を渡り、鍛冶町通り歩いて5分ほど。
 1854年の安政南海地震の被災状況を後世に伝えるため翌々年に石碑が建立された。
 地震が来たら大津波の危険があるので寺の門前を通り東の天神山に逃げるよう指南。
 畳一枚をはるかに超える大きな石碑、具体的な指示。「伝える」意識の強さを感じる。

 街並み散策

 「旧栖原家住宅 -屋号フジイチ-」
 醤油醸造発祥の地、湯浅の遺構(日本全国に発祥の地はあれど)
 仕込藏、釜場、丁稚部屋など、梧陵の事業の様子もイメージが湧いてくる。

 河口と同じ高さの街並みをバスの車窓から下に見る。海抜の低さが実感される。

12:00  「道あかり」にて昼食
 道あかりは、稲むらの火の館向いの広川町物産販売・飲食施設。
 清潔な施設で美味しく手頃な食事を摂ることができ、町の整備運営の様子がうかがえる。

13:00  「稲むらの火の館」
 館入口「濱口梧陵銅像」
 梧陵さんは着物のイメージだったが洋装の銅像に先入観を覆される。
 幕末から明治にかけての実業家であり、リアリストの濱口梧陵。見学を経て志の壮大さに圧倒されることになる。

 各自館内見学 展示室と旧濱口家邸宅

13:30  ビデオ上映と解説 館長さかい様
 (東大大学院の数名のグループ+失敗学会一行)
 解説より なぜ梧陵は堤防の脇に松を植えたのか? →引き波のときゴミを防ぐ、潮に流された人が掴まることができる

14:00  ガイドさん(市民ボランティアの方?)による展示室での解説
 数々の場面のジオラマがおもしろい。
 特に印象に残ったのは、梧陵は幼少期から丁稚と同じ待遇で仕事の基本を叩き込まれたこと。とっさに村人の命を救う行動に出たのは、偶然ではなく、地震のあとに津波を警戒すべきという知識があったこと。
 被災時の梧陵の行動~救命、避難誘導、仮設住宅建設、生活再建支援、村の復興施策~は現在においても学ぶべきと思った。決して古びていない。当時と現在の唯一の違いは災害時トイレ問題。
 (ちょうど春合宿を挟んだ期間に防災士専門研修ビデオ4本を視聴した。無手勝流にあれが足りないこれが足りないとやるより、梧陵の実践に学ぶことが最短で有益ではないか、と思った。司法書士会防災委員の活動にも今回学んだことを活かしたい)

 ちなみに梧陵は身体鍛錬の槍の名手であった。槍を操って米俵を空に放り投げるほどの技を持ち、槍の柄で腹を突かせてもびくともしなかったという。おそろしや。

 「稲むらの火の館」での入手資料
   濱口梧陵傳(平成28年 広川町教育委員会)
   濱口梧陵小傳(昭和9年杉村広太郎発行されたものを現代語訳版として平成17年広川町文化財保護審議委員会・ 広川町教育委員会により出版)
   稲むら燃ゆ(平成10年広川町)
   濱口梧陵の生涯(平成19年広川町教育委員会)
   稲むらの火の館展示要覧 濱口梧陵記念館/津波防災教育センター

 広川町では小泉八雲の「稲むらの火」と実話を比較検証している。小泉八雲の功績が計り知れないことは前提として、「物語」では梧陵の人柄が道徳的に伝わってくるが、「史実」は防災、村の施政の観点から実益に富む教訓が多いからだと思う。
 記念館で知ったリアルな状況はまさに生きた教訓を与えてくれるものだった。津波襲来後、ひとりでも助けられないかと見回る中、夕闇が迫ってくる。どちらがどちらかわからなくなる。逃げ遅れた者が高台目指して這い上がってくる目印にしようと、梧陵は稲むらに火をつけた。
 そうか、と思った。半藤一利が書いている。東京大空襲で逃げ惑う中、多くの人が川に溺れた。中学生の半藤も大人に混じってボートに乗り、川に浮かんだ人を引き上げる手伝いをした。ところがしがみついた人に逆に川に引きずり込まれてしまう。川の中は暗くてどちらが上か川底かわからなくなり、これで死ぬのかと思った。そのとき長靴が脱げて浮かび上がっていった。それを見て川面の方向を知り、泳いで水面に顔を出したというのである。
 梧陵の放った稲むらの火をみて、9人の村人が高台に這い上がってきた。すぐ後を波が押し寄せ、火のついた稲むらが水に浮かんだ。梧陵は最後まで村人の救助を諦めず、探し続け、能う限りを尽くしたのだ。

 宝永4年(1707年)の富士山噴火の際は、御殿場近隣7カ村の村民の5割強が餓死したと記録される。幕府に納める米を農民に横流しした郡代は責任を問われ自害したという。自然災害はみな悲惨だが、その後の命運は施政により天と地の差を開く。

17:00  「橋杭岩」
 雨が激しく車中から海を眺める。雨にかかわらず海水は澄んでいる。
 美しくも激しい自然の中で人は漁をし、田畑を耕してきた、と黒雨に思う。

17:30  ホテル大江戸温泉 南紀串本に到着

18:00-19:00  「三田講師による動画付講演 第1部」

22:00-  「三田講師による動画付講演 第2部」
  • 危険物発火実験

5月25日(日)
08:00  ホテル出発
 道中いたるところで「津波避難ビル」の掲示板を目にする。

08:10  「橋杭岩」 晴れたため海岸に下りる
 海岸沖に並ぶ岩は空海が鬼と競って橋を架けようと立てた杭であると伝わる。紀伊半島は空海が開いた高野山を擁する。真言密教が半島の村々に影響を及ぼしたのかは不学でわからないが、民間伝承のレベルにおいては弘法大師が親しまれてきたことがよくわかる。京において、仏教は貴族が一族の平穏無事を祈る手段であったが、空海は国家の安泰と民のしあわせを実現する「実学」の場として綜芸種智院を開いた。梧陵の志が重なってみえる。
 雨上がり、波に洗われる岩場の空気は清澄であった。

09:00  「トルコ記念館」
 1890年9月16日、台風で難破したトルコの軍艦エルトゥールル号の乗組員を日本の村人が助けた。トルコと日本の友情を記念する施設。
 貧しい村人の献身的な救護活動、生存者を祖国に送り届けた日本、トルコからの熱い返礼。そして現在も、祖父の歴史を確認し恩人に感謝したいと日本を訪れるトルコの若人。両国の懸け橋となった人々の友情に胸を打たれる。
 その一方、事故検証には触れられていなかったように思う。なぜ老朽化した船舶を修理して無理に就航させたのか。航行の準備段階から安全面に不安要素があることが認識されていたのにそれはどのように扱われたのか。なぜ台風の多い時期に帰路出航したのか。コレラの蔓延と船舶の隔離、資金難、列強による植民地化が進む中で国威発揚を迫られた当時の国際情勢(日本との同盟、航海力の誇示)、皇帝から遠征の総責任者を命ぜられたのは傍系親族であったこと。
 エルトゥールル号には、数多くの優秀かつ大志を抱いた青年が乗船した。海に散った命が美談に終わるのであれば、歴史は美談を繰り返すことになるのではないだろうか。

入手資料
  軍艦エルトゥールル号物語

「トルコ軍艦遭難慰霊碑」
 海に向かって威容をみせる。招魂の碑として、呼び寄せる思いの強さが伝わってくる。

「樫野崎灯台旧官舎」
 今でこそバスを降りた駐車場からトルコ記念館、慰霊碑、灯台まで舗装された道が設けられているが、両側は絶壁、一部橋の下は空隙である。明治初期に道なき道をどのように建設資材を運んだのだろうか。

11:00  「潮岬灯台」
 展望台で強風に煽られ、手摺にしがみついて黒潮を瞠るかす。

11:30  「南紀熊野ジオパークセンター」
 紀伊半島の地学的成り立ちを興味深く解説。
 消化不良ではあるが、地政学的位置は歴史を考える上で重要であることを感じた。
 展示をみて、地殻変動により、地層が折り紙のように折り畳まれている様子を実感することができた。以前、畑村先生の三現主義の原点として、学生時代千葉の地層を現地で見て深く納得されたお話を伺った。ジオパークの展示は「現地」ではないものの、なるほどこういうことだったのか、と理解でき、感銘を受けた。

16:00  和歌山駅にて解散。各位のご配慮により、渋滞を回避して予定より早く到着。
 地元で生まれ育ったベテラン運転手印南交通の坂本さん、滞りなく無事日程を終えることができありがとうございました。車中で歌ってくださった民謡が忘れられません。

 三田隊長、すばらしいご案内をくださった川久保さん、そして楽しい道中をご一緒&ご教示くださったみなさま、ありがとうございました。
 飯野先生、事務局のみなさん、ほんとうにお世話になりました。
2025年6月 あさい