事例名称 |
第四艦隊事件 |
代表図 |
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事例発生日付 |
1935年09月26日 |
事例発生地 |
三陸東方約250マイルの太平洋上 |
事例発生場所 |
海上 |
機器 |
第四艦隊の艦艇、特に重大な損傷艦は特型駆逐艦初雪(図2参照)と夕霧(図3参照) |
事例概要 |
1935年(昭和10年)9月26日、日本海軍の第四艦隊は大演習の最中に、三陸東方約250マイルの太平洋において異常な台風に遭遇し、艦船に多大な損傷を受け、多数の犠牲者を出した。損傷艦のうち、その程度が大で、かつ最も問題視すべきは、特型駆逐艦初雪と夕霧の艦首切断であった。 第四艦隊事件は、かつて予測もしなかった大波浪に直面して生じた。その原因調査によって新しい事実が究明され、かくして補強された各艦艇は以後、何等の懸念なくその任務を果たし得た。 |
事象 |
1935年(昭和10年)度の日本海軍の大演習は第一、第二艦隊より成る常備連合艦隊(青軍)と、臨時に編成された第四艦隊(赤軍)との間で、同年7月から行われ、9月下旬に両艦隊の対抗(第三期)をもって終結するはずであった。この演習に参加の艦船は大改装を終わったばかりの戦艦山城、榛名、復元性能の改善工事を終った新鋭艦最上型、初春型などを含み、大いにその成果が期待されていた。 9月下旬、赤軍艦隊は津軽海峡を越えて東航し、本州東方海面に進出し、艦隊対抗決戦が行われることとなったが、9月26日14時頃から台風の異常な荒天に出会い、駆逐艦初雪と夕霧が大波浪を受けて艦橋直前で船体が切断し、艦首部を喪失するという事故を生じた。同時刻に、駆逐艦睦月は波浪を受けて艦橋が圧壊し、また航空母艦龍驤は艦橋前面に破損を生じ、さらに航空母艦鳳翔は飛行甲板を波浪に突込んで甲板前端を圧壊して羅針艦橋よりの操艦を不能となし、その他の各艦がいずれも波浪のため大小の被害を生じ、ついに行動中止のやむなきに至った。艦隊は大損傷艦を除いて三陸沖で対抗演習を行った上、東京湾品川沖に勢揃いし、10月7日、統監艦比叡艦上で伏見宮軍令部総長御臨席のもとに、講評が行われて大演習を終った。 第四艦隊事件は前例なき重大事件で、あまりの重大性(軍縮条約廃棄のいわゆる1936年の危機の前年)に鑑みて、その真相は厳重に秘匿されたのである。船体の切断というようなことは1899年、英国駆逐艦コブラ(370トン)が完成直後の航海で船体が両断して沈没して以来始めてである。先に水雷艇友鶴の転覆があり、今またここに最も有力なる駆逐艦の船体切断事件を生じ、日本海軍の造船技術に対し根本的な疑念が生ずるに至った。 原因調査の結果、特型駆逐艦の船体強度不十分が最大の原因であることが明瞭になったが、すでに就役後7年間、ほとんど故障なく使用されていた艦が突然強度不十分と立証されるにおよび、その後計画建造された巡洋艦と駆逐艦も、さらに航空母艦すらも強度に欠陥があって補強を要することとなった。なお、特型駆逐艦についてはこの事件後に、就役以来の状況を詳細に調査した結果、就役後2、3年経ってから強度上の欠陥に基づく損傷が次々と発生していたことが判明した。しかるに、いずれも深く留意されずに、政治的に片付けられ、技術的調査を行うことなくついに第四艦隊事件を引き起こすに至ったのであった。 当時の新造艦は溶接を広く使用しており、今回の事件が直接に溶接に起因するものではないが、船体強度に関し、徹底的に調査を進めて行くうちに、溶接を主要構造物に広く使用した艦は強度上の不備があることが明らかとなった。 第四艦隊事件は、かつて予測もしなかった大波浪に直面して生じた。その原因調査によって新しい事実が究明され、かくして補強された各艦艇は以後、何等の懸念なくその任務を果たし得たのである。事件の責任はもとより造船技術者にある。友鶴事件とともに日本海軍80年史を通じて、特筆すべき大不祥事件であったと思われる。1936年の危機を直前にし、一時期、日本海軍全艦艇の戦闘力の根本に疑念を持たれるまでの2つの事件は、幸いに当事者の異常な努力と適当な処置によって見事に対策が採られた。 |
経過 |
1935年(昭和10年)10月10日、野村吉三郎大将を委員長とする査問会が組織された。奇しくも山本五十六中将、古賀峯一少将(ともに後、元師、連合艦隊司令長官)も委員であった。初雪と夕霧の場合、艦が大波浪によって大きくピッチングをし、前甲板の鋼板にしわを生じてバックリングを起こし、何回も激しいピッチングを繰り返すうちにしわはついにき裂となって船体が切断するに至ったと認められた(図4参照)。この2艦とも艦尾甲板にもしわが発生しており、また他の数艦でも船体切断の前兆と見るべきこのしわの発生していたことも発見された(図5参照)。 これより先、1935年7月に特型駆逐艦は東京湾外でうねりの中で高速運転を行い、叢雲では程度こそ軽微なるも同一性質のしわの発生を見た。横須賀でその調査に当たった艦政本部部員某造船少佐はこれを重大な強度上の欠陥によって発生した損傷であると断定し、特型駆逐艦の大演習参加については重大な考慮を要する旨を復命したが、上司は大演習の矢先にこんな問題を出しては艦政当局の大失態となることを恐れてこれを不問に付し、しわの発生した一艦のみ単に補強を行ったにすぎなかった。その直後、台風に突入して同型艦2隻の大惨事を引き起こしたが、その強度上の欠陥が事故発生時に生じたわけでは決してなかった。 1935年10月21日、臨時艦艇性能改善調査委員会が海軍省に設置され、小林蹐造大将が委員長となり、事故原因の調査とその対策の決定のため直ちに活動を開始した。委員会は約5ヶ月にわたって昼夜兼行して調査と審議を行い、1936年4月に至って原因の究明と所要の対策具体案について報告を完了した。 第四艦隊事件は水雷艇友鶴の転覆に続き、またまた前例なき重大事件で、あまりの重大性(いわゆる1936年の危機の前年)に鑑みて、その真相は厳重に秘匿されたのである。船体の切断というようなことは1899年、英国駆逐艦コブラ(370トン)が完成直後の航海で船体が両断して以来始めてである。先に友鶴の転覆あり、今またここに最も有力なる駆逐艦の船体切断事件を生じ、日本海軍の造船技術に対し根本的な疑念が生ずるに至った。 |
原因 |
特型駆逐艦の船体強度不十分が最大の原因であることが明瞭になったが、すでに就役後7年間、ほとんど故障なく使用されていた艦が突然強度不十分と立証されるにおよび、その後計画建造された巡洋艦や駆逐艦も、さらに航空母艦すら強度に欠陥があって補強を要することとなった。特型以前の各艦も新造時の重量が計画に比して超過したもの、および新造後に新設改造によって重量の著しく増加したものについても同様のことが言える。なお、特型駆逐艦についてはこの事件後に、その就役以来の状況を詳細に調査してみると、就役後2、3年経ってから強度上の欠陥に基づく損傷が次々と発生していたことがわかった。しかるに、いずれも深く留意されるに至らず、政治的に片付けられ、技術的調査を行うことなくついに第四艦隊事件を引き起こすに至ったのであった。 当時の新造艦は溶接を広く使用しており、今回の事件が直接に溶接に起因するものではないが、船体強度に関し、徹底的に調査を進めて行くうちに、溶接を主要構造物に広く使用した艦は強度上の不備があることが明らかとなった。 |
対処 |
波の長さ(波長)Tと高さ(波高)Hの定義を図6に示す。第四艦隊の遭遇した荒天中、重巡洋艦那智の航海長が観測した波の波長は100~150メートル、波高は10~15メートルで、波長と波高の比は約10であった。また、戦艦戦隊の遭遇したものもこの割合と同じであったが、水雷戦隊が所在した海面では波長200メートル、波高15メートルで、波長と波高の比は13.3になる。しかし、これは特型駆逐艦がその艦首に大波を被ったときの三角波ではなくて、当時の大波を計測した結果である。以上の実状と他の調査とにより、次の如く結論された。日本近海に生ずる波の長さは、70メートル/秒の風速では波長500メートル、波高23~26メートル、50メートル/秒の風速では波長280メートル、波高15~18メートル(この規模のものは日本近海では年2回程度発生)、40メートル/秒の風速では波長180メートル、波高11~14メートル(年10回程度発生)になる。以上によると波長と波高の比は10~13程度になり、しかも台風の場合では10程度が多いことがわかる。 この調査に当たっては海軍水路部の観測記録や諸外国の波浪に関する文献はすべて調査された。もともと波浪の観測は極めて困難なものであって、信をおくに足る報告の数は誠に少なく、仮りにあっても万象中の一象をもって他を推測することはできない。 造船設計者が船体強度計算の標準として採用しているのは波長/波高比が20であり、波長が船の長さに等しいとする。船の長さに等しい波長のとき、船体に生ずる曲げモーメントが最大であることは波形をトロコイド曲線とすると計算的に実証され、波長/波高比を20とすることは経験上この程度の波が限度と認められたからである。このような波を基礎とすることは、いわゆる標準計算として万国普遍であった。標準計算によって得られる曲げモーメント曲線に基づいて、艦の各断面に生ずる曲げ応力は、その構造が決定すれば簡単に求められ、また曲げ応力を適当な値とするように船体縦強力材の寸法及び構造法が決定される。問題はこの曲げ応力をどの程度の値に押えるかにある。曲げ応力は破壊応力に対し十分の安全率を見込まなければならない。 第四艦隊の遭遇した波浪は波長/波高比20の標準よりはるかに激しい巨大なものであった。現実にこのような波浪が日本近海で生ずる。したがって、従来やってきた船体強度計算における曲げ応力の許容値の取り方について重大な検討を加える必要があった。さらに、念のため場合によっては波長/波高比10の場合についても船体強度計算を行って強度の判定に資した。 この事件は日本海軍の艦艇の構造の不備に基づくことは明らかであるが、同時に日本近海では従来観測されていた以上の大波が起ることもわかり、したがって事故の原因、対策はもちろん、遭難時の天象それ自体についても厳秘に付されたのである。 特型駆逐艦は切断艦以外にも、切断の一歩手前というべきしわを甲板に発生した艦が数隻あって、また後部甲板にも同様の現象が発生していた。 巡洋艦最上は新造時に溶接構造である艦首外板にしわが見られていたが、この行動後はその程度が増大しており、主要強度材としての価値を失うほどのものすらあり、荒天中、前部主砲付近では軋むような音が発生し、また艦首の振動が著しく、乗員に不安の念を与えたほどである。潜水母艦大鯨は1万トンの大艦ながら動揺は50度に達し、海水の漏洩によって操舵機用の電動機が故障し、一時操艦の自由を失い、艦橋前方外板に最上と同じ性質のしわが著しく発生した。航空母艦龍驤は前甲板が低いため、飛行甲板前端である艦橋前壁及びその周壁が怒涛のため圧壊を生じた。また、重巡洋艦妙高などにおいては、船体中部の外板鋲(リベット)接手に緩みを生じている。 波浪による諸艤装品の損害も多様であった。要するに、この激しい荒天に遭遇した各艦はいずれも大なり小なりに損傷を生じたのである。 特型駆逐艦の強度は一応慎重に計算されていて、計画時の艦の状態では普通の標準波については最大応力は決して高くない。しかし、計画に比し完成重量は非常に増加していた上、就役後色々と改造されて重量的に変化が生じていた。また、船体縦強力材によって普通なら艦の前後部の応力は著しく下っているのだが、特型駆逐艦では前後部の強力材を薄くしており、そのため前後部でも中央部と同じ程度の応力となっていた。これは重量軽減上有利だと考えられたからである。標準波以上の高い波に遭遇すると当然、艦の中央部の応力も増加するが、艦の前後部の応力の増加の割合は一様でなく、艦によって多いものも少ないものもあり、前後部の乾舷及び予備浮力の分布によって著しく相異する。特型駆逐艦では波長/波高比を10とすると20の場合に比して中央部甲板の応力は45%増し、前部では69%増す。これは艦が波の谷間に来た場合、すなわちサギングと称する場合の圧縮応力である。艦が波の山に乗った場合、すなわちホギングの場合ではこの増加の程度はそれほど大ではない。サギングとホギングを図7に示す。すなわち、特型駆逐艦では構造重量を軽減するため、従来行われなかった応力分布法を深く研究することなく採用していたのである。 以上でわかるように、特型駆逐艦は凌波性が良いだけに艦首の甲板が一段高く、かつ外板が著しい反り(フレヤー)を有し、したがって高い波を受けたとき、甲板に生ずる圧縮応力が大である。圧縮応力に対する座屈限度についても相当に検討されていたが、見当違いの点もあり、これらと両々相俟って特型の前甲板(艦橋直前)に大きい圧縮応力を受け、鋼板が座屈(バックリング)してしわを発生し、何回も繰り返すうちについに切断したのである。すなわち、当該部の鋼板が薄すぎた上に、波高が最大だったのが船体切断の原因であることがわかった。 同様に、あらゆる艦艇について詳細に計算が行われたのである。 |
対策 |
各艦について苛酷条件(シビヤーコンディション)における計算を行い、発生する応力を算出すれば、その補強方針を定めること自体は困難ではない。 しかし、既成艦の船体補強ということは、新たにこれから建造する艦の構造を定める場合とは、全くその趣を異にする。しかも、他の性能に及ぼす影響を極少にしなければならない。時期的にも、長期間を要する工事は国防を危なくし、また財政上より経費を極限すべきことは当然の帰結である。しかし、ことはすこぶる重大であるので、日本海軍の採った対策は極めて大胆、かつ徹底的であった。 艦によって差こそあるが、一般小艦艇においてはドック入りの上、ほとんど丸裸という位まで外板、甲板を取り外し、艦橋は船体と切り離して丸太で支えた上、必要と認められた一切の補強が施された。 溶接を採用した艦は溶接そのものが悪いのではないが、当時においては十分に研究の完成をまたずに乱用された傾向があり、溶接構造の設計にも工作法にも不十分な点が多々認められたので、大規模に改造された。そして、この事件を転機として一時期、軍艦の主要強力材(ストレングスメンバー)相互の溶接は中止となり、従来のように鋲(リベット)構造を主用する方針となった。 第四艦隊事件は、かつて人の予想もしなかった大波浪に直面して生じた。その原因調査によって新しい事実が究明され、かくして補強された各艦艇は以後、何等の懸念なくその任務を果し得たのである。事件の責任はもとより造船技術者にある。友鶴事件とともに日本海軍80年史を通じて、特筆すべき大不祥事件であったと思われる。1936年の危機を直前にし、一時期、日本海軍全艦艇の戦闘力の根本に疑念を持たれるまでの2つの事件は、幸いに当事者の異常な努力と適当な処置によって見事に対策が採られた。 この2つの事件の技術的解決に当たったのは基本計画主任の福田啓二造船少将(後、技術中将)であり、東京大学工学部長平賀 譲氏もまた前後を通じて指導された。多数の技術者は各工廠より艦政本部に応援出張し、そして夜に日を継いで調査と計算が行われた。対策の実施に当たっては各工廠及び主要民間造船所はその全力をつくしてよく短期間内にほとんど全艦艇の性能改善工事を施行し得たのである。大多数の艦では改善工事は1936年度末までに終了し、残余の若干隻も1938年度末に完了した。 何人も当時を回顧するとき、感無量のものがあるであろう。 |
知識化 |
未知の荒天との遭遇によって、技術の未熟さが露呈した。少なくとも今日、造船技術者は船体強度については確固たる信念と、貴重な経験を持っている。喉元過ぎて熱さを忘れてはならない。終戦後半世紀を経た今日といえども第四艦隊事件の殉難者の霊に誓って、この経験を活用すべきである。 |
背景 |
船体強度の不備に至った背景として、軍縮条約の不利を補うための個艦威力の増大の苛酷な要求が挙げられる。1921年(大正10年)11月、ワシントンで開催された軍備縮小会議で米英日佛伊の五大海軍国は建艦制限を討議し、締結された条約は翌1922年8月より発効するに至った。この条約で米英日佛伊の主力艦トン数比はそれぞれ5、5、3、1.75、1.75に制限された。 次いで1930年(昭和5年)、ロンドンにおいて開催された軍縮会議は幾多の紆余曲折を経て補助艦、潜水艦に至る一応の制限を定めた。この条約締結に際し、日本海軍の対米英7割の主張は不十分ながらも表面的に一応は目的を達したかに見えたが、実質的には制限下における米の補助艦を優勢とする結果となり、ワシントン条約以来、個艦威力の増大を極力図った日本海軍の造艦計画は、止むを得ざる事情とはいえ、正に極端な用兵上の要求を受け、過大性能を織込んだ結果、各型艦艇に著しい性能上の欠陥を暴露するに至ったのである。政策と技術との不均衝が何を招くか、無理しなければ用兵上の要求を満足し得ない窮状に置かれた技術者はいかにその所信を表明すべきか、日本海軍の建艦史に特筆すべき友鶴事件と第四艦隊事件は、われわれに痛烈な教訓を与えたのである。 |
後日談 |
太平洋戦争中、ハルゼー大将指揮の米海軍第3艦隊は2度にわたり台風による大被害を受けた。正に、神風特別攻撃隊ではなく、本物の神風が吹いたのである。 最初は、1944年(昭和19年)12月18日朝、フィリピン東方海面で第3艦隊の第38任務部隊(高速空母機動部隊)が強力な台風に遭遇し、駆逐艦3隻が転覆して沈み、ほかに18隻が大破、9隻が損傷を受け、艦上機183機と将兵800名が失われた。駆逐艦3隻の転覆は、台風と空の燃料タンクという悪条件が重なった結果である。 米海軍は高速空母機動部隊中心の艦隊を、指揮官と艦隊名称を交互に代えて運用していた。ハルゼー大将指揮が第3艦隊で、スプルーアンス大将指揮が第5艦隊である。日本海軍は第3艦隊と第5艦をそれぞれ別の艦隊と誤認識していた。 沖縄で激戦が続いている1945年(昭和20年)5月27日に、同方面米海軍部隊の最高指揮官がスプルーアンス大将からハルゼー大将に交替し、第3艦隊と改称された。同時に、高速空母機動部隊も第38任務部隊に改められ、指揮官はミッチャー中将からマッケイン中将に代わった。 ハルゼー大将は沖縄水域への神風特攻の根を断ち切るため九州攻撃を計画し、これにより第38・4任務群が北上して6月2、3日に九州南部の飛行場を攻撃したが、予期したほどの成果を挙げられなかった。 その直後の4、5日に沖縄・九州水域に強力な台風が来襲し、作戦中の第38・1、第38・4両任務群はその猛威にさらされる破目になり、特に第38・1任務群はその位置と針路の関係から甚大な被害を受けた。 この台風により第3艦隊は、戦艦4隻、航空母艦2隻、軽航空母艦2隻、護衛航空母艦4隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦以下17隻の合計36隻の艦艇が相当な被害を被り、艦上機142機が破壊される打撃を受けた。 ハルゼー大将とマッケイン中将はよくよく不運な男達で、第3艦隊はよくよく不運な女達である(艦船は女性名詞)。米海軍は日本の侵攻を企図しながら、艦艇の計画建造において、強力な台風との遭遇は考慮されていなかったのであろうか。もちろん、第四艦隊事件の原因が船体強度不十分であったことは日本海軍の極秘事項であり、米海軍が知る由もない。第四艦隊事件以後、日本海軍艦艇の台風との遭遇による被害は皆無である。軍事では、失敗知識の共有はできないのである。 |
シナリオ |
主シナリオ
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組織運営不良、運営の硬直化、理不尽な要求受け入れ、未知、異常事象発生、台風、調査・検討の不足、事前検討不足、審査・見直し不足、計画・設計、計画不良、設計不良、軍艦、船体強度不十分、使用、運転・使用、航海、起こり得る被害、潜在危険、大波浪、破損、変形、座屈、組織の損失、社会的損失、国防力の低下
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情報源 |
(1)福井静夫、日本の軍艦、出版協同社、昭和31年。 (2)堀 元美、駆逐艦その技術的回顧、原書房、昭和44年。 (3)C.W.ニミッツ、E.B.ポッター(実松 譲、富永謙吾 訳)、ニミッツの太平洋海戦史、恒文社、昭和41年。 (4)阿部安雄、写真太平洋戦争、第9巻、光文社NF文庫、平成7年。
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マルチメディアファイル |
図2.駆逐艦 初雪
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図3.駆逐艦 夕霧
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図4.駆逐艦 初雪の損傷状況
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図5.駆逐艦 睦月の損傷状況
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図6.波の長さ(波長)Tと高さ(波高)Hの定義
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図7.サギングとホギング
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備考 |
死者数:多数(非公開) |
分野 |
材料
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データ作成者 |
小林 英男 (東京工業大学)
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